[旅に行く] マルコの三千里

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 イタリアのジェノバから、お母さんのいる南米アルゼンチンのブエノスアイレスへと、マルコが旅をする物語、「母をたずねて三千里」を、最近読み返しました。マンガや時代劇ばかり読んでいて、幼児への絵本や物語に興味を示さなかった反動で、最近、このように絵本づいているのです。

 いわゆるお母さんの出稼ぎで、出先のブエノスアイレスからの便りが途絶えたので、心を痛めた息子のマルコが、船に乗って大西洋を渡るのです。ビン洗いの仕事で、アルゼンチン行きの船の船賃を稼ぐうちに、船員になって船に乗る機会が、マルコに与えられるのです。移民船の船員の仕事を手伝いながら、移民たちの貧しさや辛さを垣間見ます。嵐にあいながら、ブエノスアイレスに着くのです。

 親戚を頼って、その街に着くのですが、おじさんは事業に失敗し、お母さんも行方不明になってしまっていたのです。アンデス山脈の麓の村、コルドバにいるという情報を得たマルコは、パンパ平原を超えて長旅をします。さまざまな困難を通り、親切にもあうのです。そこにいた母は、マルコが訪ねた時には、またトウクマンという村に移っていたのです。世話をしてくれた少年の妹の病気の医者代のために、もらったお金を使い果たしてしまいます。けっきょく無賃乗車をして、トウクマンに着くのです。

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 マルコのお母さんは病気をしていました。でも息子に会えた喜びで、体が回復していくのです。そして、ジェノバに帰ることができます。その頃には、お父さんの事業も良くなっていて、長い旅の後に、素敵な家庭が再建されていく、そんな物語です。

 十七の時に、アルゼンチンへの移民を真剣に、私は考えていました、「日本アルゼンチン協会(亜爾然丁)」が東京にあって、資料を取り寄せて、スペイン語の学習書を買って、その準備をしたのです。ところが学校に合格してしまって、二者択一で、楽な道を選んでしまい、その夢は儚くも消えてしまいました。

 あれから何年も何年もたってから、ブエノスアイレスの教会訪問で訪ねたのです。空港に着いた時、もし十七、八の時に移民していたら、どんな生活をしていたのだろうかという、光景がパノラマのように閃いたのです。人生の岐路での選択に、主の導き、『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ3021節)』を認め得たのです。

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 移民された方の家も訪問し、ご馳走になりました。洗濯屋さんをしておいでで、沖縄からの移民のみなさんとお会いできたのです。「三線(さんしん/沖縄の三味線です)を演奏してくれました。その訪問の後、サンパウロに行き、近郊の街に住む義兄を訪ねました。大きな池のある家に住み、農業移民から、手先の器用さを利して時計修理や販売、宝石などを商いながら生活をし、子育てを終えていました。

 和歌山から母子で移民された方が、街一のレストランに招待してくれ、大ご馳走に預かりました。リンゴ栽培(ふじりんご)で成功し、手広く事業をされておいででした。移民の母子家庭の逆境を乗り越えておいででした。成功も失敗もさまざまな物語があったようです。

 マルコのような物語も、日本人版であったかも知れませんね。イタリア人の店では、ピザが売られていました。アルゼンチンも、ブラジルも、ヨーロッパ系のみなさんの移民の地でした。

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