再び平和を願って

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 好きな讃美歌が、私にもあります。トプレディー(Augustus Montague Toplady/1740-1778)の作詞で、「千歳の岩よ(Rock of Ages)」です。この讃美歌には、父なる神への全幅の信頼が告白されています。これを賛美すると、自分の信仰の体系が全部備わっているように感じて、ただ感謝な思いが湧き立ってまいります。

1 千歳の岩よ、わが身を囲め
裂かれし脇の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ
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2 かよわき我は 律法にたえず
もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
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3 十字架の他に 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみたまえ
み救いなくば 生くる術なし
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4 世にある中も、世を去る時も
知らぬ陰府にも 審きの日にも
千歳の岩よ、わが身を囲め
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 人間の無力さ、か弱さ、寂しさ、死への恐怖の中で、神に見出された者の驚きの中で、神を思い、賛美しているのでしょう。千歳(永遠)、岩、十字架、裁き、陰府、救い、信頼、憐れみ、贖い、力と言った、聖書の用語が並べられた讃美歌なのです。滅びて当然な自分を、永遠のいのちへの救いに入れてくださった神への賛美と感謝が溢れています。
 戦時下のウクライナもロシアも、両国の青年たちは、祖国のために銃を手にして、酷寒の戦場にあって、何を思うのでしょうか。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26章26節)」、とイエスさまが、剣を抜いて打ち掛かったペテロに語ったことばを、どう読んだのでしょうか。祖国のために、同胞のために、家族のために、青年は戦わなければならないのでしょうか。

 私たちの世代は、平和教育を受け、平和の戦後を生きてきました。今また、子や孫の世代は、曽祖父の時代のように、剣を手にしなければならないのでしょうか。第三次の世界戦争は、避けられないのでしょうか。昨日、フランシスコの「平和の歌」を読みました。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。

 イザヤ書に次のように記されてあります。
 『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 (9章6〜7節)』
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