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「戦災孤児」が、日本には12・3万人もいたと言われています。大陸には、「残留孤児」がいて、戦争と戦災によって、様々な理由で両親をなくした子が、戦後を生き抜いて来ています。私は終戦の時には、前年の年末に生まれていたので、まだ歩けない8ヶ月でした。兄たちは、戦災孤児にも残留孤児にもなり得た世代でした。
父は、奉天(今の瀋陽です)や京城(今のソウルです)で、仕事をしていましたが、軍務で呼び戻されて、中部山岳にあった、軍用飛行機の防弾ガラスの原料になる「石英」を採掘する軍需工場に勤務中に、終戦を迎えています。ですから、大陸で終戦を迎えることがありませんでした。
日本全体が、“一億総ひもじい時代”でした。そんな中、父は、私たち四人の子どもを飢えさせずに育ててくれたのです。1950年代の初めに、四人の将来を考えた父は、東京に家を買って、自分の育った東京に戻ったのです。私の世代には、戦争で父親を亡くした、母子家庭の同級生がクラスの中に、何人もいました。恵まれた子もいれば、ごく貧しい同級生もいました。
戦災によって、焼き出され、親と死に別れたた孤児は、新宿でも上野でも、よく見かけました。自分だって、そうなり得たと思うと、恵まれた自分が、こそば痒く感じたのを覚えています。そんな孤児が、逞しく生きていたのです。有名なのは、「火垂るの墓」の野坂昭如氏、落語家に三平の奥さんの海老名香葉子さんですが、無名の12万もの孤児がいたわけです。
また、傷痍軍人(しょうい)が、駅頭や電車の車内で、白い小箱を前に出して、募金をしている光景も覚えています。アコーデオンを弾いたり、義手や義足で傷害を負われたのを訴えたりしながら、戦後、生きる努力をされていました。大陸の大連に、残留孤児に施設があって、その当時撮影した写真を見たことがあります。
その他にも、占領軍の兵士によって生まれ、捨てられた私生児のお世話を、沢田美喜さんがしておられたと、新聞のニュースで読んだことがありました。家庭が壊れ、食料と肉親の愛に飢えた世代があったことを、「終戦の日」の朝、私たちは覚えておきたいのです。素晴らしいのは、どんな境遇の中でも、人は逞しく生きられるように、造られていることです。
(戦後間もない頃の街中を移した写真です)
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