母三人

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《朝顔のある風景》とは、好いものです。毎朝、ベランダに出て、いくぶん涼しさを感じられるのは、花があるせいかも知れません。北側のベランダにも、小さな花が咲いています。何という花でしょうか。これは、毎年、忘れた頃に咲き出しています。今頃は、「トルコキキョウ」が綺麗に咲き始めてるのだそうです。じょじょに自然界は、秋に移ろうとしているのでしょうか。これが、せめてもの暑さの中の慰めになっている様です。

昨日は、息子さんを連れて、再来年の大学進学のために、“オープンキャンパス”や、「進学準備ゼミ」に合わせて、東京や大阪、そしてお母様の故郷と出かけて、帰られたお母様が、午前中に見えられました。《水羊羹》をお土産に頂きました。緑茶を入れて、食べた《至福の時》でした。夕食後に、九月から“小5“になる息子さんを連れて、お母様が見えました。息子さんの『行ってみたい!』との願いを叶えて上げるために、「西安(中国史で習った<長安>です)」と、「洛陽」に、家族で旅をした旅行話をしてくれました。

《好きお母様》をなさっておいでのお二人でした。子育て終了の私たちですが、様々な昔を思い出した一日でした。

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来た道

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満天の夜空に、星が煌(きらめ)いていましたから、秋になっていたでしょうか。寒かったので、枯れ草や稲穂を集めて寝床にして、そこから星空を見上げていました。刈り入れが終わっていましたから、晩秋だったでしょうか。東京の郊外は、まだ星空を見上げられたのです。

もう一箇所は、"丸通(まだヤマトの運送会社が出来る前、運送業を一手にしていた<日本通運>"の貨物の載し下ろしをする、旧国鉄の引き込み線に停めてあった貨物車の車掌室でした。横になれる様な椅子があって、ここの方が、家出した私には、草むらの藪の中より、寝心地が遥かに好かったのです。

この二回だけ、家出した晩に、涙を流しながら過ごしたことを覚えています。その他にも、何度か家出しなければならない事情があったのですが、覚えていません。可愛がられた私にも、父の鉄拳と『出て行け!』が飛んできて、やむなく寝場所を確保したのです。何をして叱られたのか、皆目覚えていませんが、それほどの目に遭うことをしたのでしょう。

あんなに切なくて、家や布団の温もりが恋しかったことはありません。お腹は空くし、今の様にペットボトルなどない時代に、喉も渇いたのです。母も、私を探す当てもない、高台の藪や列車の中ですから、『ごめんなさい!』なんて言いたくない頑固さで、小学生の私には、家に帰れない"男の事情"があって、ちょっと辛い体験の記憶なのです。

こういう経験って、男の子に普通にはあるのでしょうか。それだけ悪戯をし、父親を怒らせたのですから、当然の報いを受けたわけです。翌朝、家に帰ると、私を見つけた父は、一瞥するだけで、怒りは昨日に置いてきていました。朝食を食べて、ランドセルを背負って、下駄を履いて学校に行ったのです。『ごめん!』って、父に言ったかどうかも覚えていません。

級友からは、家出の話を聞いたこともありませんし、自分の家出も話すことはなかったのですが、みんなは、自分の様な家出の経験があったのでしょうか。怖い拳骨親爺のいない家庭が、けっこうあったので、父親(てておや)がいて、拳骨を喰らわす父親がいた自分は、三度三度食べられて、お風呂にも入れて、布団の中で寝られたのは幸せだったわけです。

戦争で親を失って、親戚に預けられたのはいいのですが、いじめられて、差別されて、耐えられずに、妹の手を引いて家出をするのですが、妹は死んでしまい、妹の骨を「ドロップス」の缶に入れて、持ち歩く兄妹の物語は、実に悲しかったですね。兄たちの世代でしょうか。

大陸で、帰国途中にのドサクサで、親と生き別れた孤児たちが、沢山いたそうです。生き延びていたら、八十、九十才台でしょうか。拳骨を喰らわせた父も、台所の昇り口で、ご飯に味噌を載せて、そっと食べさせてくれた母も逝ってしまいました。同じ様な経験をした兄たちも弟も、"男の事情"を通せない、若者に席を譲られるジジイになってしまったわけです。今は穏やかな日々を過ごしていますが、これが来た道のヒトコマです。

(埼玉県秩父の星空です)

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