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野球は“ヒマワリ”、ハンドボールは“イヌフグリの花”でしょうか。甲子園では、高校野球が熱射の中、たけなわの熱闘を繰り広げています。 マイナーなスポーツをやった者としては、日本中が大騒ぎするメジャーなスポーツは、羨ましい限りです。小さなボールではなく、野球よりも何倍もー大きいボールを追い、投げた私には、ちょっと悔しさがあります。
私のすぐ上の兄は、神宮球場の大会まで進んだのですが、当時、東京一区、一校だけの東京代表の時代、ベスト16で敗退して、涙を飲みました。数え上げれば、これまで何十万、何百万の野球小僧がいたことになります。「100回記念大会」とのことで、“レジェンド(伝説の高校球児)”たちの始球式が行われているそうですね。
そんな彼らの背後に、プロにもアマにもならずに、野球人生を終え、草野球に甘んじた野球小僧たちのことを思っています。大学の野球部にも推薦されたことのある兄ですが、会社の野球チームでプレーをしていた時期があった様です。でも、今年“77歳”、帯状疱疹がもたらす<悪さ>の痛みと闘って、この時期を迎えています。
何年か前に、上海から一人で乗船して、大阪港に着いて地下鉄に乗ったのです。その途端に、8月でしたから、『もしかしたら?』と、学生に聞きましたら、全国高校野球大会の最中とのことした。それで甲子園に方向を変えようとホームで、ご婦人の一団に、行く道を聞いたのです。そうしましたら、宗教団体のみなさんで、姉妹教団の学校が出場し、応援を幹部から要請されたので、これから行くと言うのです。
『ちょうどチケットが一枚残っているので、一緒に!』と言うことで、宗旨は違うのですが、渡りに船で、おばさんたちの後についって行ったのです。その高校は、母の出身県・島根県代表でした。それで大声を出して応援させていただき、初めての甲子園を経験したわけです。
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相手は、東北大震災で被災した、岩手県代表の盛岡工業だったと思います。本当は、向こうのスタンドで、応援して上げたかったのですが、依怙贔屓(えこひいき)なしで、双方の活躍を、三塁側のスタンドで願ったのです。結果は、盛岡工業が勝って、おばさんたちは、すごすごと帰って行かれました。
それでも“ヒマワリ”であり続ける人は、ほんのわずかですが、白球を追った青春とは好いものですね。同じグラウンドの向こうで野球を、こちらで、まだ“11人制”のグラウンドを駆けていたのも、もう一つの青春でした。今や、「白頭掻けば短し」で、ポケットに昔、入っていたクシも要らないほどの坊主頭の爺になってしまいました。
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