回顧

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七十数年の生涯で、何だか今が一番充実している様に感じるのです。アルバイトに明け暮れていた学生の頃も、子育てしていた時代も、アメリカ人起業家から、責任を任されて従事した仕事も、自分としては、力を抜くことなど、どの時もありませんでした。

学生の頃、夏前から毎年やったのが、牛乳工場の市乳部で、製造部からコンベアーで送られてくる牛乳の木箱を、冷蔵庫の中で積む作業でした。様々な種類の牛乳、フルーツジュース、ヨーグルトなどが送られてくると、空いたスペースに、翌朝の搬出が容易になる様に、積んで行くわけです。『来年も来てくださいね!』とプロ顔負けの仕事をしてくれたと、褒めててくれた部長が、そこにいました。

子育てのために、月2回の床清掃の仕事を、スパーマーケットから請け負って、20年近くしました。午前零時までの営業店で、11時過ぎに開始し、朝七時開店に@間に合わせての店舗の床全面の掃除でした。床を、ピカピカにするワックス仕上げでした。時間に追われての作業は、緊張の連続でした。帰宅した子どもたちは、よく手伝ってくれました。系列の店も頼まれたのですが、自分の容積をわきまえて断ったり、他店の掃除も頼まれたりでした。多くの人に助けて頂いた年月でした。

アメリカ人の起業家から受け継い仕事は、26年、その前の助手時代を合わせますと34年間、従事しました。その仕事は、家内との共同で従事したのですが、大変でしたが、喜びも多くありました。年に二度くらいでしょうか、月曜日に、子どもたちを学校に送り出して、隣県の入浴施設に出掛けて行って、帰りに、焼肉を一緒に食べたのが、とても意味のある息抜きの時でした。それにテニスの交流会に出掛け、英気を養ったのも宝物の時でした。

そして不思議な導きで、ここ中国にやって来たのです。来た当初、出会った方の紹介で、大学の日本語科の学生に、日本語を教えながら、こちらの事業のお手伝いをさせて頂きました。そして今日を迎えています。学生のみなさんと過ごした時も、私の宝物です。昨夕も、家内と出掛けて、頼まれた仕事を終えて九時半頃に帰宅しました。

多くの人が、このお借りした家にやって来ては、相談に乗ったり、アドバイスをしたりしています。家内は、日本語を学びたいと言う子どもたちに、今は、週に2クラスを教えています。ご婦人たちが訪ねて来て、一緒に時を過ごすことも多くあるのです。

本来なら、今頃は孫のお守りとか、茶飲み友だちと時を過ごすとか、趣味に生きているのでしょうけど、今なお、すべきことが与えられているのは、この上もない喜びであり、充実の心境です。急(せ)かされないし、プレッシャーはないし、力を抜いて生きていられるのですから、好い老いを生きられているのだと、在華満十二年を迎えて感謝でいっぱいです。みなさんに助けられて、生きてこられた年月を思い返しております。。

(今では綺麗に整備されている竹芝埠頭、ここでもアルバイトをしました)

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花々しきベランダ

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今朝、強い雨がひとしきり降って、今は止みました。こういう降り方が、土曜日から続いています。今朝の雨上がりにベランダで咲いた、五輪の朝顔の一つです。
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ベランダの鉢の中からおいでて来た花です。名前が分からずにいたので、「里山を歩こう」のマルタンさんにお聞きしましたら、それをご覧になった《大阪府のKAyobeeさん》が、次のように答えてくださいました。『茎を切って穴がなければヒメジョオン、あればハナジオンです。』とです。
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これも同じ様にお聞きしましたら、《Kayobeeさん》が、『ハナキリンではないでしょうか。』と答えてくださいました。ありがとうございました。異国に咲く花の名をご存知である、その知識の深さに驚いています。

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同級生

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先週、知り合いが会食に招いてくださった席に、「同級生」も呼ばれていて、久し振りに、お会いしました。この方は韓国系のハワイ人(アメリカ人)で、ちょうど同じ時期に、この街の「海外教育学院」で学んでいたのです。長男がハワイで学んでいた時の恩人を、よく知っておられて、英語と習いたての中国語で交わりをしていました。2人の女の子を保育園に預けて、夫婦一緒に学校に来ておられたのです。

奥様は料理が上手で、韓国料理で招いてくださって、大ご馳走になったことがありました。長男と同じ年齢の同級生なのです。当時、その学院は、イギリス、インドネシア、ヴェトナム、フィリピン、韓国、モンゴルなどから学びに来ていて、日本人も結構大勢で賑やかでした。旧キャンパスの道路を挟んだ反対側に、教室がありました。今は、新キャンパスに移転しているのです。

この同級生は、中国語をマスターしていて、ちょっと外国人訛りのある中国語で、上手に話すのです。それにひきかえ、家内と私は、彼には及ばないのです。話すことのだいたいは分かるのですが、なかなか好く言い表せないもどかしさを感じ、ちょっと彼が羨ましいのです。学んでいる頃に、大学の外籍教師として、教壇に立っていて、その準備や添削で忙しかったと、私は言い訳をしたいのですが、そんな言い訳は通用しません。

会食を終えて、彼が、『“I want to”を日本語で何と言いますか?』と聞いて来たのです。それは、『私は日本語を話したい!』と言いたかったわけです。つまり、『廣田さんともっと深く交わりを持ちたい!』と願ってでした。英語も中国語も、上手に話せない私たちに、自分で学んで話をしたいと言ってくれたわけです。これって、アメリカ人の発想ですよね。

数年前、他の街に越して行かれ、大きな責任を持って、上海の近くの街でお仕事をし、若いみなさんの指導の働きをしているのです。小さかったお嬢さんたちが、そろそろ大学進学の時期を迎えているそうです。三ヶ国語を駆使しながらお仕事を忠実にされておいでです。男盛りの好人物なのです。私たちに、父母に対するような敬意を示してくれる方ですが、もう、全く《おじさん》になられた同級生です。

(ハワイでもこの街でも、よく見かける「ブーゲンビリア」です)

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