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満天の夜空に、星が煌(きらめ)いていましたから、秋になっていたでしょうか。寒かったので、枯れ草や稲穂を集めて寝床にして、そこから星空を見上げていました。刈り入れが終わっていましたから、晩秋だったでしょうか。東京の郊外は、まだ星空を見上げられたのです。
もう一箇所は、"丸通(まだヤマトの運送会社が出来る前、運送業を一手にしていた<日本通運>"の貨物の載し下ろしをする、旧国鉄の引き込み線に停めてあった貨物車の車掌室でした。横になれる様な椅子があって、ここの方が、家出した私には、草むらの藪の中より、寝心地が遥かに好かったのです。
この二回だけ、家出した晩に、涙を流しながら過ごしたことを覚えています。その他にも、何度か家出しなければならない事情があったのですが、覚えていません。可愛がられた私にも、父の鉄拳と『出て行け!』が飛んできて、やむなく寝場所を確保したのです。何をして叱られたのか、皆目覚えていませんが、それほどの目に遭うことをしたのでしょう。
あんなに切なくて、家や布団の温もりが恋しかったことはありません。お腹は空くし、今の様にペットボトルなどない時代に、喉も渇いたのです。母も、私を探す当てもない、高台の藪や列車の中ですから、『ごめんなさい!』なんて言いたくない頑固さで、小学生の私には、家に帰れない"男の事情"があって、ちょっと辛い体験の記憶なのです。
こういう経験って、男の子に普通にはあるのでしょうか。それだけ悪戯をし、父親を怒らせたのですから、当然の報いを受けたわけです。翌朝、家に帰ると、私を見つけた父は、一瞥するだけで、怒りは昨日に置いてきていました。朝食を食べて、ランドセルを背負って、下駄を履いて学校に行ったのです。『ごめん!』って、父に言ったかどうかも覚えていません。
級友からは、家出の話を聞いたこともありませんし、自分の家出も話すことはなかったのですが、みんなは、自分の様な家出の経験があったのでしょうか。怖い拳骨親爺のいない家庭が、けっこうあったので、父親(てておや)がいて、拳骨を喰らわす父親がいた自分は、三度三度食べられて、お風呂にも入れて、布団の中で寝られたのは幸せだったわけです。
戦争で親を失って、親戚に預けられたのはいいのですが、いじめられて、差別されて、耐えられずに、妹の手を引いて家出をするのですが、妹は死んでしまい、妹の骨を「ドロップス」の缶に入れて、持ち歩く兄妹の物語は、実に悲しかったですね。兄たちの世代でしょうか。
大陸で、帰国途中にのドサクサで、親と生き別れた孤児たちが、沢山いたそうです。生き延びていたら、八十、九十才台でしょうか。拳骨を喰らわせた父も、台所の昇り口で、ご飯に味噌を載せて、そっと食べさせてくれた母も逝ってしまいました。同じ様な経験をした兄たちも弟も、"男の事情"を通せない、若者に席を譲られるジジイになってしまったわけです。今は穏やかな日々を過ごしていますが、これが来た道のヒトコマです。
(埼玉県秩父の星空です)
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