地球大の課題に取り組め!

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私の<中国人観>と言うのは、こうでした。男性は、顎髭をつけて、道端に座り込み、手に長いキセルを持って、日がなスパスパと煙草を燻(くゆ)らせている様子でした。歩き方ものんびりし、生活の仕方も長閑(のどか)なのです。女性は、<纏足(てんそく、子供の頃に足を木靴にはめて、大きくならないようにしたようです)>していて、働くことを好まない人たちだと思っていたのです。何かの絵を見て、その印象が抜け切らなかったわけです。

日本の横浜や神戸にも、<中華人街>などがあって、それほどの距離のないところで生活をされていたのに、中国のみなさんとあまり出会う機会がありませんでしたから、子どもの頃の印象を、ずっと引きずっていたのです。ところが、中国を初めて旅行した時、北京、フフホト(内モンゴル)、上海、広州の街中で出会ったみなさんが、男性も女性も勤勉で、歩幅が広く歩調も早く、サッツサッツと歩く姿を見て、驚いたのです。こちらで生活をし始めて、働き者だと言うことがさらなる強い印象になっております。昨日も散歩をしていましたら、小柄な若い女性が、私を追い越して行きました。散歩ですから、息が弾むように歩幅を大きくとっていたのにです。

一度取り込んだ印象と言うのは、なかなか抜け切らないのだと思わされたのです。それは悪意からではありませんでした。そうしますと、この時代を生きている若い世代のみなさんは、<反日抗日教育>を受けて来られていますから、大変に悪い印象を持っていると言うことになります。日本語専攻の学生のみなさんは、それを修正できるのですが、そうでなかったら、日本旅行をして、実際に見聞しない限り、改まることはありません。

かつての日本の若者が、<鬼畜米英>と教え込まれて、憎しみを持ち、敵愾心を燃やして、アメリカ人やイギリス人を罵り蔑視したことがありました。そして銃を手にとって、戦いを挑んだのです。しかし、実際に戦争被害を受けた祖父や曽祖父を持つ、中国の若い世代のみなさんにとっては、日本人は憎悪や復讐の対象であるのは、私たちの経験からしても当然なのではないでしょうか。

そのような歴史と中国のみなさんの感情を無視しては、ことは進みません。戦争末期に生まれた私でありながらも、原爆や焼夷弾を持って日本の国土を焼土と化したアメリカとアメリカ人に対する感情は、不穏なものがありました。そんな私の感情を癒すために、穏やかで紳士だったアメリカ人と出会って、八年間、一緒に働きつつ学んだのです。その年月が、私の赦せない思いを深く対処したのだと思い返しています。

中国のみなさんも日本人の私たちも、同じ時代の空気を吸いながら生きています。地球大の問題や課題は山積しています。今、猛烈な八号台風が沖縄を伺っているようです。進路からすると台湾も中国本土も圏内に位置しています。どう動くかで被災するかしないかが決まります。異常気象だけではなく、人口や食糧や環境保護やエネルギー、さらには青少年問題などの共通の課題です。仲良く対策を共に講じるか、そうではないかでは、大きな違いです。局地の問題よりも、大局的に鳥瞰的にものごとを見て行きたいものであります。

♭ うみ ♯

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夏の季節がやってきますと、懐かしく思い出す歌があります。作詞が林柳波、作曲が井上武士で、文部省唱歌の「うみ」があります。

1 うみはひろいな 大きいな
月がのぼるし 日がしずむ

2 うみは大なみ あおいなみ
ゆれてどこまで つづくやら

3 うみにおふねを うかばして
いってみたいな よそのくに

山奥で生まれて、海を見ることなく育った私にとって、海への憧れは、人一倍大きかったようです。初めて海を見た記憶は、母のふるさとに旅行した時に、汽車の車窓からだったと思います。土佐の桂浜から太平洋の大海原を眺めた坂本龍馬のような思いには至らなかったのですが、海の向こうの世界には、何か夢があり、その夢を果たせそうなものを感じたのは確かです。

父は神奈川県横須賀の出身で、曽祖父は「海軍工廠」の技官だったそうで、海とは近い関係があったようです。父の中学時代に、横須賀から東京湾を横断する遠泳に出たとか聞いたことがありました。当時の海は綺麗だったのでしょう。中学に入った時に、横須賀からは対岸の館山海岸で、「水泳教室」が持たれ、参加しました。赤い六尺褌をキリリと締めて、<男>になったように感じたのです。海の水の塩っぱさが、あれほどとは思いませんでした。

海を眺めたり、潮騒(しおさい)を聞いたり、泳いだりしますと、<古里回帰>のように感じるのは、父の血の故でしょうか。よく聞いたのは、潮の満ち引きの音は、母の胎内の羊水の中にいた時の記憶に通じるのだそうです。だから、潮騒を耳にすると、何とも言えないほどに、心が落ち着くのかも知れません。このところ、上海と大阪の航路を行き来する「蘇州號」に乗っていません。東シナ海の夏の潮風は、頬にとても気持ち好いのです。また乗船してみたいものです。

(写真は、三島由紀夫の「潮騒」の舞台である鳥羽・沖島です)

昔のこと

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次女が長野県の「南信州」に住んでいたことがあります。留学先で出会った青年と結婚して、数年経ってから、高校の英語教師を日本でしたいとのことで、”JET”という派遣機構の紹介でやって来たのです。阿南町と飯田市に住んで、三カ所の県立高校で英語を教えていました。この南信州に、「阿智村」と言う純農村があります。今では、農産品や木材や観光で収益を上げられるようになっていますが、戦争前には、日本でも貧しい地域の一つでした。

その貧しさの故に、人生の転機を求めてでしょうか、または「口減らし」のために、<農業移民>が国策として奨励され、それに応募して、多くの村民が出かけたのです。アメリカ大陸やハワイやブラジルへの移民とは、事情が違っていました。多くの少年たちも両親の下を離れて参加しています。

ハワイやブラジルやアルゼンチンに移民された方たちに、お会いしたことがあり、お話も聞かせていただきました。どこも、慣れない異国の厳しい気候や土地の状況下での開拓は、実に厳しかったようです。「王道楽土」という言葉で宣伝された満洲の開拓の移民総数は、27万とも32万とも言われて、確かな統計資料は失われています。敗戦で、引き揚げた帰国者の数が、11万人だったと言われていますから、「満州移民」は、筆舌に尽くせない過酷なものだったことが分かります。

そんな時代に、一つの歌が歌われていました。作詞が島田磐也、作曲が陸奥明で、昭和16年(1941年ー太平洋戦争が開戦しています)に発表された、「満洲里小唄」です。

積もる吹雪に暮れ行く街よ
渡り鳥なら伝えてておくれ
風のまにまにシベリア鴉
ここは雪国満州里

暮れりゃ夜風がそぞろに寒い
さあさ燃やそよペチカを燃やそ
燃えるペチカに心も解けて
唄えボルガの舟唄を

凍る大地も春には溶けて
咲くよアゴニカ真っ赤に咲いて
明日の望みを語ればいつか
雪はまた降る夜空も白む

まだ出かけたことはありませんが、この歌に出てくる「満州里」は、内モンゴル自治区にあります。遼寧省や吉林省や黒竜江省は、移民の多かった省です。あの「残留孤児」が、様々な理由で置き去りにされた地域です。阿智村の一人の住職が、孤児たちの帰国に尽力したことで有名で、次女に案内されてその村を訪ねたことがあります。何とも言えない、「悲しさ」が村に漂っていたのを思い出します。私の二人の兄と私は、この「戦争孤児」と同世代なのです。やはり、二度と同じような戦争に、一般市民が巻き込まれる悲劇のないことを願いつつ、昔聞き覚えた「満州里 小唄」を、今夕は口ずさんでしまいました。

(写真は、開拓農家の秋の収穫風景ー「百度」の撫順の古写真から)

宝宝出生了!

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『宝宝出生了!』、『6月23日に、身長 49cm、体重 3000gの男の子が生まれました!母子共に元気です!』と、昨日、泉州の教え子のご主人からメールがありました。gmailに発信したのだそうですが、届かなかったようで、hotmaiに連絡してくれました。

宝宝には『健やかに育 ちますように、みんなに愛されますように!』、教え子には『体が早く回復しますように!』と心から祝福しました。酷暑の季節の誕生ですから、夏のように逞しく、躍動的な男児となることでしょう。もう一人、私たちに<孫>が与えられたかのよう、喜んでいます。

きりりとした男児の誕生、心からおめでとうございます。ご家族のみなさんの上に、心からの祝福をお祈りします。

(写真は、生まれたばかりの「宝宝」ちゃんです)

感謝!

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一昨日、いつも決めて買いに行く果物店で、買ったスイカが、異常に甘いのです。昔、味わったことのある懐かしい味がしてくるではありませんか。これは自然の味ではなく、あの「サッカリン」の味です。舌の裏側から、唾液と共に、甘みがジワッと湧き上がってくるのです。母は、料理をする時には、ほとんど使いませんでしたが、我が家にも、結晶した人工甘味料が、瓶の中に入って、調味料棚に置いてありました。砂糖の流通の少なかった頃のことです。二、三度、こっそり舐めたことがあって、『これは偽物!』だと、子供ながらに分かったのです。

何年か前に、『あるスイカは、赤く着色していたり、甘みを加えてありますから!』、と言われたことがありました。豚肉も赤みを増すための着色もあるようです。意外と舌は敏感ですから、<偽物>や<異物混入>を見破るのです。毎年、夏になりますと、家内の大好物ですから、冷蔵庫に切らすことがないように、切り売りしているスイカを買ってきては、入れてあるのです。先日、アメリカのスイカの様なフットボール型のスイカを頂いてから、丸のままの物を買ってきているのです。一昨日のは異常に甘いのです。

消費者から<甘さ>が求められるので、つい、こう言った細工をしてしまうのでしょうか。甘い果物を作るコツは、「土壌改良」をするのだと、葡萄や桃を生産している方から伺ったことがありました。これは手間、暇、お金がかかるので、つい、出来上がった製品に甘みを加えてしまうのでしょう。ずるい生産者が、やりたがる常套手段です。

そう言えば、ライチも桃も、その他の果物が、最近、甘くなっているのです。もしかしたら、小細工しているのかも知れませんね。昨日来られたお客さんが、二分の一に切ったスイカを持ってきてくれて、まだ冷蔵庫の中にあるし、困ってしまいました。それで、上の階の方に差し上げたのです。あれも、同じように甘かったのではないでしょうか。

食べ物には、結構気を付けているのですが、厳格に調べたら、食べるものがなくなってしまうことでしょう。それで、「感謝」して食べることにしてるのです。そうしたら、害を免れることができるからです。『正直であって欲しい!、そう思っている、灼熱の週末の夕方です。

(写真は、小分けして切られた「西瓜」ですーWMから)

セミ

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今年の蝉の鳴き声が、やけに強烈で、けたたましく聞こえてくるのです。日本で聞いていたのは、ほとんどが<油蝉>なのでしょうけど、『 ミーン、ミンミンミン・・・!』と聞こえてきたのに、こちらでは、ひときわ強く、『ジージージー・・・!』の連続音なのです。何十年となく聞き慣れてきた、真夏の日中の蝉の、あの聞き慣れた鳴き声と違って、そう聞こえてくるので、ちょっと期待外れなのだと思います。この蝉は<クマゼミ>に違いありません。酷暑の華南の街の主役が、もしかしたら、この蝉に代わってしまったのでしょうか。

昨日も、蝉の鳴いている木に近づいたのですが、日本では、人の気配を感じて、しばらく鳴き止むのですが、こちらでは、何のその、鳴き止みません。こちらには 、 セミ捕りの悪童がいなかったので、人を恐れない習性が培われているのかな、と思ったりしています。朝や夕方には、『カナカナカナ・・・!』と聞こえる<ひぐらし>の声がありましたが、こちらでは聞いたことがありません。<ツクツクボウシ>の『オーシンツクツク、オシン・・・!』も聞こえてきません。

中学一年の時に、松尾芭蕉の書き著した紀行文、「奥の細道」を教わりました。「古語」で、よく映画の時代劇で聞いていた口調で、書かれてあって、なんとなく分かって、おもしろかっのです。この芭蕉の作った俳句に、

閑(しずけ)さや岩にしみ入る蝉の声

があります。閑静な奥山に分け入った芭蕉が、耳にしたのが、『チー、ジー!』と鳴く<ニイニイ蝉>の蝉の鳴き声でした。まるでその鳴き声は、岩に沁み込んで行くように聞こえていたのでしょう。土の中で長く過ごして、蛹からかえって、短い一生を鳴いて鳴いて終えるのですから、激しく自己主張をするのに違いありません。

あの<アブラゼミ>の鳴き声が懐かしいのです。アイスキャンディーをしゃぶりながら、麦わら帽の私に、ジリジリと照りつける夏の太陽と、<ミンミンゼミ>の鳴き声が、夏本番でした。

(写真は、「アブラゼミ(ミンミンゼミ)ですーWMより)

喜ぶ者と共に

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昨晩、若い友人夫妻が経営するパン会社の「周年慶」が、繁華街にある<第一号店>で催され、お祝いの植木鉢を手に、家内と二人で、公共バスに乗って出かけました。7時からセレモニーが開催され、店内にはラッシュアワーの山手線を思わせるような招待を受けた人々で溢れていました。それほどの数の顧客を持っていることに、七年間の実績を感じさせられたのです。

カナダから最高級の小麦粉を輸入し、それを日本製の製パン機、日本の製パン法で焼き上げた、パンとケーキとクッキー、中秋節には<月餅>を販売してきています。市内に四店舗あり、今年の暮にはもう一店、建設中のモールに開店予定だそうです。また、大手のスーパーにも販売コーナーをもうけたり、有名ホテルにも納品しているそうです。最近では、ケーキの<通販>も始めておられ、経営も順調のようです。社長夫人の弟さんは、製パンの機材や材料の会社を任されていて、同席されていました。

他のパン屋と比べると、格段の価格の高さがありますが、『美味しい!』ので、大人気を得ているようです。一昨日も、頂いて冷凍庫にあったケーキを、四人のお客さんにお出ししましたら、『おいしい!』と大喜びで食べておいででした。

どうしてこんなに、この企業を絶賛するのかと言いますと、美味しいパンやケーキを頂くだけでなく、私の帰国中、一人残った家内を、この社長夫妻が、家に招いてくれて一週間もお世話してくれたり、私たちに好くしてくれるからなのです。夫妻の中学生の息子さんは、アメリカに留学されていて、下の小学一年のお嬢さんは、<おにぎり>が大好きで、この夏休みは、これを食べに日本の福岡の親戚の方の家に行く予定でいるのだそうです。

この七年間のことを、若干声が高い調子で、30分ほど社長さんが話されていました。ご自分自身、パンが大好きで始めた事業ですから、ここまでの成功を顧みて、感慨も一入(ひとしお)だったのでしょうか、熱を帯びて語っておいででした。この方は、親に捨てられた障害のある子どもたちのために、余ったパンやケーキではなく、製品を寄贈し続けてきているのです。最近では、その子どもたちの誕生日を調べて、<バースデイ・ケーキ>を届けているそうです。

こう言った黙々としてなされている<社会貢献>が、この企業の祝福の理由なのではないでしょうか。私の長男の友人で、月島でケーキの製造卸をされておられる方がいて、『彼と東京で出会ってから、とても助けられています!』と、日本贔屓の社長夫妻が感謝されておられました。家内の奥様会仲間のご婦人方も出席し、引き出物を頂いて帰宅しました。喜ぶ者と共に喜べた真夏の宵でした。

(写真は、家内が頂いた「母の日ケーキ」です)

街角で

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最近の街角で、以前と違うことが幾つかあります。その一つは、主要の道路には中央分離帯として、<柵(可動式)>が置かれたことです。以前は、横断歩道を含めて、どこででも、道路を横切れていたのですが、この柵のおかげで、遠回りしなければならなくなってしまいました。信号と信号、横断歩道と横断歩道の距離が驚くほどあるのです。安全にはなったのですが、その代償もあるのです。稀に、若い人がこれによじ登っているのを見かけます。

この街で、来年、「奥体(日本だと「国体」のこと)」が行われるので、全天候型の屋内競技場が幾つも、我が家から20分ほどの広大な一郭に作られています。また全国から集まる選手たちが宿泊するホテルも、幾棟も工事中なのです。道路整備も行われており、高架橋や立体交差などが作られています。その工事をする作業員のみなさんが、朝5時半ごろには、大勢出勤しているのです。そのために中央分離の柵を細工して、くぐれるようにしてある所を渡っている人を、今朝、見かけたのです。遠回りしないで済むからです。<建設ラッシュ>は驚くほどです。

それに、貸店舗での自営の<果物屋>をする方が増えています。夏に買いたい重い「西瓜」も、以前は、スーパーで買って帰らなければならなかったのですが、アパート群の門を出て、すぐの所に4、5軒もあるのです。マンゴスチンとかバナナとかドリアンなどの輸入果実まで、店頭に並んでいます。果物の需要が増えているからでしょう。 また、<パン屋>が増えています。饅頭、餅、油条(棒状の揚げパン)、粥が、朝食で食べられていたのですが、今は、<パン食>が多くなってきているようです。食パンは薄く切られていて、砂糖入りで甘くて、ちょっと馴染まないのですが、我が家は、毎週のように、天然酵母で発酵させた<日式食パン>を頂くことができています。これが美味いのです。

暑い夏になって、若い女性の<ホットパンツ姿>が目立って多くなってきています。『ウーン!?こんなんで好いのかな?』と、唸ってしまうような姿なのです。着ることのできなかった時代が終わって、自由奔放になってきているようです。悩ましいのは少々問題であります。若き男性には目の毒でしょう。また年配の女性が、ずいぶんと<若作り>なのが気になりますが、<いい時代の到来>なのだと思うことにしております。はい。

(写真は、「イギリスパン」ですーWMから)

女工たちの富岡製糸場

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何もかも失ってしまった中から、起死回生のように、立ち上がった日本は、やがて、アメリカに次ぐ、世界第二位の工業国となって行きます。敗戦の前年の年の暮れに生まれた私は、そう言った歴史を辿りながら生きてきたことになります。山の中で、小学校入学まで育ちましたので、どのような年月を過ごしてきたのかは、小学校の社会科の授業で学んで知ったのです。また文字が読めるようになると、新聞を読み、ラジオのニュースを聞いて、今何が起こっているのかを、少しずつ知ることができました。

この度、ユネスコの「世界遺産」として登録された、群馬県の「富岡製糸場」のことも、授業の中で教えてもらった一つのことでした。岐阜や長野や山梨の貧しい農村の少女たちが、女工として雇われ、作業環境の劣悪な工場で、低賃金で働かされたこと。その労働で作られた「生糸」が輸出され、莫大な外貨を稼いだこと。その外貨で、日本の軍備を増強し、農村から兵士を招集し、列強と肩を並べるほどの軍事国家となったこと。そんなことを学んだのです。 政治家や企業家が国を作ってきたように思われていますが、実際は、農村から駆り出された少女たちの労働によって得た外貨によって、この国の礎が据えられ、近代国家が作り上げられて来たのです。「貧乏物語」、「女工哀史」、「ああ野麦峠」などの作品は、そういったことを再確認させてくれたわけです。

いつでしたか、諏訪湖湖畔の、製糸工場跡を見学したことがありました。そこに「千人風呂」と呼ばれた大浴場があったのです。これは、どれほど多くの女工が働いていたかと言うことなのでしょう。また、信州が味噌で有名なのも、この女工たちの食事に供された「味噌汁」を作るために生産されたからだと言うのです。それだからでしょうか、そこの味噌は、塩っぱく感じるのかも知れません。 もちろん、日本人が機を見るに早く、勤勉で、緻密で、手先が器用だったから、国際競争に勝てる優秀な製品を作れたことは自明の事実です。さらに、『近代化の遅れを早く取り返さなければならない!』と言った、差し迫った時期に、国があったのも事実です。

しかし、うら若き女工たちの血と涙と汗とを忘れてはならないのです。そう言ったことで、「富岡製糸場」の世界遺産登録は、この時代に生きる私たちが、歴史の重さを思い返す意味で、好かったのだと思います。

(写真は、”WM”による日本人が愛し続けてきた「桜」です)