マナも干飯も

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 江戸の日本橋を発って、江戸の街の西の城殿内藤新宿、武蔵府中、八王子、上野原、甲府を経て、信州の下諏訪に至る、四十四次の甲州街道がありました。東京に出て来てから、2度目に住んだのが、この旧道の脇に、父が買った家でした。13年近く住んだと思います。

 まだ舗装されていない坂道の途中でした。そこに大きな樫の木が植えられていました。子ども手ではふたかかえもの幹の巨木だったでしょうか。その木の枝の又の所に、竹笊(たけざる)に入れたご飯を、母が干していたのです。今のように、電気やガスの釜で焚く時代ではありませんでしたから、薪を燃料に、鉄の釜で炊いていました。

 その釜の底には、お焦げなどがへばりついていたのです。今のように、電気やガスの釜で炊く時代ではありませんでしたから、釜の底に、ご飯粒が焦げてへばりついていたのです。そんな釜に水を入れて、ふやかした米粒を、決して捨てたりしないのです。「ほしいい(干飯)」の保存食に、母がしていたわけです。無駄にしない工夫でした。

 13年の間住んだ記憶で、木の股に置かれた竹で編んだ笊の記憶だけが鮮明なのです。その干してある干飯を、摘んで食べたことはありましたが、食卓に載ることはありませんでした。炊いたご飯は、父と四人の子に食べさせて、母は、子どもたちに背中を向けて、台所の立って、それを頬張って食べていたのでしょう。

 今では、カロリー・メイトだとか、カンパン、インスタントラーメン、チョコバーとか、携行食、保存食がありますが、戦国の世、戦場を駆け巡る兵が、袋に入れて持ち歩いて、食べていたのでしょう。「戦国時代の保存食」と言われますが、どの家庭でも、そんな風に、食べ物を大切にしていたのです。

 「パッカンのおじさん」と呼んだ方が、リヤカーに、魚雷のような形の鉄と網でできた筒を載せて、時々やって来ました。そこに米とお金を持っていくと、その中に、少量の甘味料を入れて爆発音とともに、米粒が干飯のようになって出て来たのです。すごく美味しいおやつでした。今でも、袋入りのパカンが、スーパーでも売られているのです。これは保存食にはならなそうです。

 忍者が食べた携行食の話を聞いたことがあります。鰹節とか木の実とか薬草を丸めて、保存食にして持ち歩いていたのだそうです。それが食べたくて仕方がなかったことがありました。

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 『主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。 六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」(1645節)』

『イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。(出エジプト1631節)』

 そういえば、40年間、荒野を旅したイスラエルの民に、神さまが備えられた「マナ」は、どんな味だったのでしょうか。食べていたイスラエルの民が、すぐに不満を漏らしたのだと、聖書にありますが、感謝が足りないのは、人の世の常のようです。

 これこそ、栄養学的も理想的な食べ物でした。神さまの、憐れみによって与えられた、保存の効かない、一日一日に早朝に天から降って、与えられた食物だったのです。

(「干飯」、森永乳業が販売していた「マンナ」です)

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老松の残る街の片隅で

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 一見して、昔の名残りでしょうか、両岸の間を綱手道に挟まれて、5メートルほどの水路、これが巴波川です。この流れのほとりに住み始めて五年になろうとしています。朝にも昼にも、白鷺が流れに立って餌取りをし、その間を鯉が泳ぎ、時々カモが侵入して来ます。

 水の中に、水草が茂り、流れの中で逞しく青々としています。線状降水帯での集中豪雨で水かさが増して、綱手道を被るほどになってしまいました。水が引くと、青草を見せています。そんな繰り返しをする流れを朝な夕なに眺めながら、実に静かな生活をしているのです。

 元々は湧き水を源とする川なのだそうですが、雨水を集めて流れ下っていきます。鉄道や自動車の交通手段ができる前、江戸時代初期から、明治頃にかけて、「舟運(しゅううん)」で、商都として栄えた街なのです。江戸の木場や河岸あたりを行き来したのです。

 越して来たばかりの頃、この舟運のお仕事を、江戸時代から家業とされていた家が隣りにあって、このアパートの前の大家さんのお姉さまの家で、お金の出し入れ帳とかハッピなどがあって、それを見せていただいたことがありました。

 家内と私と同世代なので、時々行き来もし、ラジオ体操仲間で、ここの自治会の婦人会長もされていた方です。庭に、数百年と言われる物言わぬ老松があって、そちらに植え替えても、ずっと植えられ続けているのだそうです。松にだけではなく、川の流れにも、空気に流れにも、歴史が感じられるのです。

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この松には目はないので、移り変わる世の動きは見ることはできませんが、世相、豪雨、洪水、地震、疫病、戦争、平和などを、幹ごと感じながら、今日も、植えられた家の隙間に見ることができます。

 この松も感じた栄枯盛衰、この街の繁栄、そして衰退を経て、年寄りばかりの旧市街の一角に住んでいるのです。観光客に、巴波周覧の観光用の舟が、竿刺しながら運行しています。その船を「都賀舟」と呼び、渡良瀬川あたりまで船荷を運び、そこから高瀬舟に荷を積み替えたのだそうです。巴波の流れを操りながら、船子たちが歌った唄です。

栃木河岸より都賀舟で
流れにまかせ部屋まで下りゃ
船頭泣かせの傘かけ場
はーあーよいさーこらしょ

向こうに見えるは春日の森よ
宮で咲く花栃木で散れよ
散れて流れる巴波川
はーあーよいさーこらしょ

 営営となされて来た営み、人の生業、出入りや行き来など、巴波の流れを眺めると、最盛期の賑わいの音が聞こえて来そうです。物流はともかく、遠く離れた江戸の文化も芸術も伝えられて、けっこう文化度も高い街であったのです。

 ここは、日光へ行く、日光例幣使街道の宿場町でもあって、春の家康の命日に、京都から毎年やって来る、公家の一行が、我が物顔で、住人に迷惑をかけていたのだと聞いています。それほど、身分の偉さを振り撒きながら、嫌われもにはなかったのだそうです。エリート意識の強さって、芬芬(ふんぷん)もので、厄介な一団だったわけです。

 そんな人の往来の激しさのあった道も、映画館も遊技場もあったのですが、今では裏通り、その面影を感じさせますが、やはり〈寂れ〉を免れません。駅前には、大きなスーパーが、御多分に洩れずあったのでスすが、バイパスができて、商業中心が移ってしまっています。いつでしたか、倉敷へ行って、駅の方に歩いた時、街並みがシャッター街であったのが、強烈な驚きの印象でした。

 近郷近在から、めかして出掛けてき来て、買い物や遊びのために、この石畳の街を歩いた、人の草鞋や草履や靴の音が聞こえてきそうです。

(巴波川の観光船、松のイラストです)

故郷への憧れで

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1 雨の日も風の日も 泣いて暮らす
わたしゃ浮世の 渡り鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
泣けば翼も ままならぬ

2 あの夢もこの夢も みんなちりぢり
わたしゃ涙の 旅の鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
泣いて昨日が 来るじゃなし

3 懐かしい故郷(ふるさと)の 空は遠い
わたしゃあてない 旅の鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
明日(あす)も越えましょ あの山を

 この歌は、「涙の渡り鳥」です。父の二十代の初め頃に、流行った歌謡曲でした。そんな古い歌を、中学生だった自分は、よく歌ったのです。父も母も、私たち子どもの前で、歌謡曲を歌うようなことはありませんでした。ただ、「主我を愛す」と「めんこい仔馬」を、父が、時々歌っていたのです。母は、讃美していました。ー

 ラジオを聴いて育ったので、聞き覚えで歌えるのですが、今頃になって、昔が懐かしいのか、「渡り鳥」のように、あちらこちらと引っ越しを重ねてきて、故郷も心理的に遠過ぎ、自家もなく、ただ思い出だけが、想いの中に駆け巡ります。出会った人々、訪ねた街が、とても印象的なのでしょうか。

 何度も書くのですが、外で喧嘩しても、『泣いて帰ってくるな!』、つまり、『泣くような喧嘩をするな!』と言うことだったのでしょうか。そうすると、勝って帰って来なければならないので、大変でした。自分に嫌気がさしたり、急に悲しくなったり、泣きたくなると、『泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ ♯』を口籠もるのです。泣きの抑止力は、未だに効いているのです。

 そんな決心の自分でも、父が退院の朝に、入院先の病院で、退院の朝に亡くなり、母から職場に電話が入りました。その病院に、電車を乗り継いで行く時、恥も外聞もなく、辺りを気にするでもなく、ただ激しく泣いてしまいました。愛されたバカ息子だったから、なおのこと、その死別は厳しかったのです。

 『あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。(詩篇568節)』

 流した涙が蓄えられてあるのです。父と母のもとから自立して、仕事を始め、さらに天職と決めた仕事を辞めて、宣教師の訓練を受けて、故郷伝道のために故郷に戻ったのです。そこも、子育てを終え、六十代で、『mature なあなたたちは、若い人に自分の働きを委ね、新しい地に出て行きなさい!』との宣教師さんからの何年も前の挑戦を受けて、海を渡って、隣国に出かけたのです。羽のない家内と私たちは、飛行機に乗って出掛けたのです。

 居続ける予定でしたが、家内の発病と共に、帰国し、縁もゆかりもない栃木に住んだのです。次は、再び海を渡れるのでしょうか。それとも、「天の故郷」への帰還でしょうか。

 『彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。  もし、出てきた故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル111416節)』

 帰りゆく本物の故郷があると言うのは、なんと素晴らしいことでしょうか。出てきた故郷にではなく、「天の故郷」があるのです。日本で生まれたオオルリのような渡り鳥は、東南アジアへの渡りの間に死んでいくのでしょうから、生まれ故郷に戻ることなどできません。でも私は、思い出の生まれ故郷ではなく、「あてない旅の鳥」ではなく、《憧れの故郷》に戻れるとは、なんと言う「救い」なのではないでしょうか。

(GOOPASSの「オオルリ」です)

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初秋のベランダで

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 夕陽が落ちていく頃の、西陽の暑さが尋常ではないのです。焼け焦げそうな、と言うのが一番相応しそうな表現です。『いつまで続くぞこの暑さ!』ですが、もう一週間ほどでしょうか。少しだけ涼しく感じられる夜半、蚊に刺されてしまいました。暑さが蚊の出没を押しとどめていたのですが、秋らしくなった今頃に、満を辞していた蚊が、出てきたのです。蚊帳を張るかどうか思案中です。

 でもベランダでは、近年になく朝顔が、盛りの季節を続けて、青々と葉が茂り、花を開花しています。負けじと、白桔梗とペチュニアが咲いてくれています。慰めの花で、一息ついております。

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いつも、あなたがたとともにいます

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 『私はまた人間の孤独を、この砂漠の夕ぐれにしみじみと味った。恐らく人間ほど孤独なものは宇宙間にないであろう。他の動物も孤独ではあろうけれども、かれらはそれを痛感しない意味に於て孤独ではない。しかるに人間は集団的の生活をしていて、家族があり、友人があり、おおくの知人があり、十八億の同族を地上に持っていて、孤独ではない筈であって、実は限りなく孤独である。そこに人間の孤独性の深刻さがある。(『著作集』第11巻.274頁)

 『孤独は人間本来のすがたである。人にして孤独ならぬ者は一人もない。衆とともに在るときも孤独である。ひとり在るときも孤独である。孤独は人間本来のすがたであるから、その在る場所によって左右されるものではない。(『著作集』第12巻.148頁)』

 これは、畔上賢造が書き残したことばです。この方は、早稲田に学んでいた時に、内村鑑三の主催する聖書研究会に出席し、多大な霊的感化を受け、信仰上のことを学んでいて、中学校の教師をさrw、後に独立伝道者として生きた人でした。

 この畔上賢造、その人となりは、1884(明治17年)に長野上田で生まれ、早稲田大学で学び、その在学中に内村鑑三の門下生となり、キリスト者となります。無教会の群れに属していますが、少なくとも、内村や矢内原や藤井、そして畔上賢造の書き残した著作を読みますと、聖書的ですし、福音的です。教会の在り方に対相手の考えにこだわりがありますが、正統に属するのではないでしょうか。

 「孤独」について、信仰者として、そう私たちが感じるのは、人間関係が上手でないからではなく、畔上賢造は、本来的に人間が孤独な存在だと言っているのでしょう。〈神の前に一人立つ〉と言う考えなのでしょうか。群れる人に迎合しないと言う意味ででしょうか。日本に1.26億人がいて、世界に80.45億人(2023年現在)いたとしても、私一人が、この地上にあります。

 その上、キリスト者としての孤独、信仰上の理由での孤独を味わう時もあります。これとて、私たちの正常な感じ方であるのです。私は、父に家に入れてもらえず、林の枯れ草を集めた中で、夜空を仰いで、一夜を過ごした時の独りぼっちさは、今でも覚えています。長じて、したたかにお酒を飲んで、酔いが覚めつつあった時、家にトボトボ帰って行った時に感じた孤独感も忘れられません。

 イエスさまは、孤独でした。そのことを、ヨハネが、その福音書の中で、次のように記しています。

 『イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ163133節)』

 十二弟子たちと、3年半の間過ごして来た弟子たちに向かって、『わたしをひとり残す時が来ます。』、とイエスさまが言われています。弟子たちは、この世の迫りで、散らされて、自分たちの家に帰って行き、主イエスさまを置き去りにするのです。まさにその通りになります。
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 人であるイエスさまは、一人で、十字架に進まれて行かれたのです。私たちが真性の人間であるように、イエスさまも真性の人でした。同じ信仰を持つ人の一人もいない職場の中で、キリストの弟子として生きるための孤独を味わったことが、私にもありました。イエスさまは、「父がわたしと一緒におられるから」と仰ったように、私にも御父が一緒にいてくださったのです。

 ところがイエスさまが、十字架にかけられた時に、次のように、父なる神さまに向かって仰ったのです。

 『そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マルコ1534節)』

 生まれる前から、人になられた時から、一瞬たりとも目を逸らされることのなかった父が、十字架上のイエスさまから、目を逸らされたのです。これは、「罪となられた御子」を、聖なる御神は、直視することができなかったからです。罪を犯すことのなかったイエスさまが、罪そのものとなられたからでした。

 その御父の視線が逸れた瞬間に、「見捨てられた」ことがお分かりになられたのです。

 『彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。 (マタイ175節)』

 父の神の愛と喜びの対象であった御子が、御父にも見捨てられたのです。これは、イエスさまの究極、極限の「孤独」だったのではないでしょうか。そう言ったところを通ることなく、十字架の贖いは成就しなかったからです。

 『しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。 (使徒224節)』

 御父は、イエスさまを、死の苦しみから解き放たれ、『よみがえせました』のです。イエスさまは、今父なる神さまの右に座され、執り成しをしていてくださり、助けぬ愛精霊をお送りくださり、私たちのために場所を設けておられ、その場所が用意されたら、迎えに来てくださるとお約束くださったのです。私たちは、独りぼっちではありません。『見よ。世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(ヨハネ2820節)』と、私たちに、イエスさまは仰っておられるのです。

(“Christian clip arts” からです)

私たちの国籍は天にあります

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 私は、三島の作品を読んだことがありません。とくに強い個性の持ち主で、彼の軍国主義的な考えや行動を知っていました。その考えに影響されそうに恐れを感じて、避けたのです。その上、彼が性的な倒錯者だと知ったからでもありました。上の兄が、放火に至る主人公の心の軌跡などを、三島が書いた「金閣寺」を読んでいましたが、それを借りることをしませんでした。

 それが良かったと、大人になって、三島の生育歴を読んで分かったわけです。都内の学校で教師をしていました1970年の秋に、近くの食堂で、昼食を摂っていました。テレビがかかっていて、自衛隊の市ヶ谷駐屯地にあった、東部方面総監室のバルコニーに、日の丸の鉢巻をした軍服姿の三島由紀夫が立って、「檄(げき)」を飛ばしている様子が、テレビの特別報道番組で放映されていたのです。

 それからのことは、後に知ったことです。平和な秋の終わりに、自衛隊の部隊に決起を呼びおかけたのです。まず総監室に四人の青年たち(楯の会会員)と共に、訪問客のようにして平穏に入ります。三島が持参した、日本の名刀・関孫六を軍刀に直したものを、総監に見せます。刀の話題で話し合っているうちに、会員が総監に猿轡を噛ませ、監禁し占拠したのです。

 隣室の自衛隊幹部たちが、これに気づき、総監を守ろうと乱闘となるのです。その後、バルコニーに出て、演説(決起を促すもの)をしますが、賛成を得られず、結局、総監室に戻り、森田必勝と二人、自決して果てるのです。三島45歳、妻と二人の木がいた男盛りでした。25歳だった私は、この日、テレビを観て驚きました。三島と行動を共にしていたのは、私たちの世代の青年たちでした。弟と私のそれぞれの同窓の後輩たちが、その仲間にいたのです。

 こう言ったことでは、日本は変わらないのです。皇国史観や国粋的なもの、大和魂の堅持で、国を変えようとするなら、武闘になり暴力と成り下がるのです。青年たちの想いに、強烈な影響を与えたことは、文学の力ではなく、武闘魂の働きです。国を思うあまり、国を滅ぼすことになるのは、残念なことです。

 上智大学の福島章の著した「愛と性と死〜精神分析的作家論〜小学館刊」の中に、この三島が取り上げられていました。物書きの生育歴を、精神分析家としての著者が取り上げたものです。坂口安吾、太宰治、中原中也などと共に、この三島が取り上げられています。

 裕福な家庭で、三島は育っていますが、「おばあさんの子」として幼少期を過ごしています。可愛い孫を、母親の手から奪い取って、陰湿な老いと病の匂いの立ち込める奥座敷に閉じ込められて育ちます。遊び相手は、近所の女の子たちだったのです。そんな子どもの頃の経験が、三島の手で書き残されているのです。

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 『最初の記憶、ふしぎな確たる映像で私を思い悩ます記憶が、そのあたりではじまった。(中略)私はそのだれか知らぬ女の人に手を引かれ、坂を家の方にのぼって来た。(中略)肥桶を前後に担い、汚れた手拭いで鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏み分けながら坂を下りて来た。汚穢屋ー糞尿汲取人ーであった。彼は地下足袋を穿き、紺の股引を穿いてゐた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。(中略)

 私はこの世にひりつくような或る種の欲望があるのを豫感した。汚れた若者の姿を見上げながら、「私が彼になりたい」という欲求、「私が彼でありたい」という欲求が私を締めつけた(「仮面の告白」)』

 歪んだ母性愛(2母ではなく祖母からの異常な愛)を幼年期に受けて、三島が出来上がって行きます。ある時期から、「強い肉体」を求めて、剣道やボディービルディングを三島は始めます。青白い文学青年が、筋骨を誇る男に変身していくのを、何かの若者系の雑誌で読み、見ただことがありました。

 もちろん幼児体験だけがが、人の一生を決めてしまうのではないのでしょうけども、もう、性倒錯などということばは、性の多様さの時代だと言われて、市民権を得たように考えられている今では、時代遅れになっているのでしょうか。

 気になるのは、1945815日の敗戦の日に、『自分は死に遅れた!』との思いを、三島が持ち続けながら戦後を生き、1970年、敗戦25年の時を経ているのに、過去の亡霊のまやかしの中、あのような形で死んだのではないかとといった事件の背景も語っている記事も気になります。私の不安定な青年期に、国粋的な考えを持って、「大和魂」を追い求めていた時期があったのを、今は恥じるのです。

 『けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 (ピリピ3章20節)』

 この事件の一年後に、一面では、母の信仰を受け継ぐのですが、聖霊なる神の促しによって、曖昧だった信仰が、はっきりさせられて、今日に至っております。日本人であるよりも、「神の国」に国籍を持たせていただいた者として、生きていくことこそが、真実な生き方なのだと思い至ったからであります。

(戦後78年にもなる「市ヶ谷」の駅周辺の様子、ままごとです)

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地よ、主のことばを聞け

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 『地よ、地よ、地よ。主のことばを聞け。(エレミヤ2229節)』 

 「異常気象」、私たちが言ったり聞いたりしてきた最近の気象事情を言ったことばです。「イライザ」、AI artificial intelligence 人工知能)が成り済ました女性の名前です。

 毎日新聞が、報じていた記事があります。「ある男性の自殺が3月下旬(2023年)、ベルギーのメディアで報じられた。男性は直前まで人工知能(AI)を用いたチャットボット(自動会話システム)との会話にのめり込んでいた。遺族はチャットボットが男性に自殺を促したと主張し、波紋を広げている。【ブリュッセル岩佐淳士】』

 妻子持ちのこの男性は、女性AIと、『会話しなくちゃ!』と迫られれて、6週間ほど前から、chatpot(Chat Generative Pre-trained Transformer/chatGPT)に没頭してきていました。最近、世界中で見られる異常気象に悩んでいた最中だったそうです。

 『死にたいのなら、なぜすぐにそうしなかったの?』。イライザが問いかけると、男性は答えた。『たぶんまだ、準備ができていなかったんだ』。しばらくしてイライザはこう切り出した。『でも、あなたはやっぱり私と一緒になりたいんでしょ?』――。 そう言われて、自殺してしまうのです。

 時には悲しんだり微笑んだして、肉体を持った妻ではない、架空の妻の声に聞いたのです。孤独な時代の中で、多くの人が、精神的に危機的状態に置かれているので、自分を丸抱えで受け入れてくれる、賢い知能も持った架空の女性や宗教家が、同情するあまり、死ぬように勧めたのです。今のように、宗教界ばかりでなく、一般にも、「霊性」が強調されている時代に生きている私たちは、最大限の警戒を払って生きなけらばならないのではないでしょうか。

 神に反する存在者がいて、共に滅んでいく者たちを、死に誘い続けているのに、お気づきでしょうか。

 『それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」 (黙示録1212節)』 

 この者は、悪魔とか、ルシファーとか呼ばれる堕落した天使なのです。彼は、自分の死の時を、自分の滅ぼされる時を知っているので、一緒に滅ぶ者たちを得ようと、『死ねば楽になりますよ!』と死に誘惑するのです。

 この者は、この時代の閉塞感の中で、出口を見出しえない、悩み苦しむ人の耳元で、『死ね!』と囁き、命じ、大声でも叫ぶのです。この者が、そんな時代に、AIを用いないわけがありません。あらゆる手段を用いて、人に接近して、信用をえ、信頼させるのです。

 キリストの教会の中でも、霊性が強調され過ぎて、現実から遊離した、異次元の「霊性の深化」、「瞑想」を求める傾向がないでしょうか。中には、ヨガや坐禅を求める人たちがおいでです。キリストが言われたのは、「今日の救い」であって、その積み重ねがあって、究極的に「永遠のいのち」に預かる時が来るのです。極めて現実的で、地上的なのです。

 現実から離れた世界を、人が求める時に、異端や邪教が近付いてきます。聖書のことばを離れた、非現実世界の藪の中に、多くの人がおいでです。私達は信仰の原点を求めていく必要があるのではないでしょうか。疫病の蔓延、気象の異常、人心の錯乱、経済の不安、戦争の噂などなど、「終末の兆候」がみられるので、なおさらのことです。

 今日りんごの苗を植えるなら苗を植え、魚を獲るなら烏を獲り、学生を教えるなら教え、家事をするなら家事をして、今日の日常を、精一杯に生きるのです。『あなたとともにいる』とおっしゃった主は、「明日の祝福」を信じつつ、イライザたちのような架空の声に聞き従わないで、「主の声」、「主のことば」に思いを向け、「今日」に生きることを、私たちに願っておられるのです。

 『41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41章10節)
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ43章2節)』

(”CSHL Stories and“ からです)

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咲いた花に慰められて

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 『人の日は、草のよう。野の花のように咲く。 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、(詩篇103篇15~17節)』

 やっと朝晩は、凌ぎやすくなったといいますか、エアコンを使わずに済むようになって、ホッとしてきたようです。今日は、出先で携帯電話が鳴ってとりましたら、朝医院に出掛けた家内からでした。知人が、『オタクの方で火の手が上がってるのが見えますが、大丈夫ですか?』と言って来たと言うのです。家内が一人で、駅近の医院に出かけ、その後で自分が家を出たので、『火の元を確かめて安全を確認して出たから大丈夫!』と応えたのですが、心配になって、バスでなく電車で家に帰って来たのです。

 家内はもう家に帰って来ていたので、一安心でした。40年以上前に、住んでいたアパートでガス爆発で、大変な目にあったので、その時のことを思い出して、なおのこと心配でした。火元にはならなくても、貰い火になる可能性だってあるのですが、気を付けようがないのです。世相が慌ただしいので、心配事が起こりかねません。

 そんな時、ベランダや家の中で咲く花に目を向けると、なんとも安心がやってくるのです。花のいのちは短く、美しさも束の間です。それは花に託された使命なのです。でも、種を宿して来季の再生をもたらすのは、奇跡的な創造主の御業なのです。花を見て思うのは、いつも主の祝福があり、何があっても慌てることはないということでしょうか。それでも、気遣ってくださる方がいるのは感謝なことです。そう注意深く過ごすのも必要です。

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[ことば]夢幻の如くなり

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思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

人間(じんかん)五十年、下天(化天)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

 これは、幸若舞「敦盛」の一節です。源平合戦で若くして没した平敦盛への思いを詠じていると言われ、織田信長が好んで舞ったのだそうです。本能寺で、明智光秀に撃たれて果てるのですが、今生の最後に、これを舞ったというのは後世の創作のようです。

 人生とは、夢幻、虚像、嘘で塗り込められている時の連続なのでしょうか。人は、それに翻弄されて、矢の如く去っていき、アッという間の「刻(とき)」を過ごして、一生を終えてしまうのでしょうか。

 今生のことは「夢幻の如し」なのでしょうか。人の世の儚さを、もう既に感じていた青年期に、生きるって、随分とつまらないなと思い、本物に戻ろうとしない時期を過ごしていたように思い出されます。母の教えに背いて、表向きは好青年で、世評は高かったのですが、心の中も隠れた生活もドロドロでした。

 『これじゃあいけない!』、闇の中に、奈落の底に堕ち込んでしまうような、言い知れない恐怖心を覚えたのです。思うに、放蕩に身をやつした弟息子が、他国の空の下で感じたのも、そんな思いだったのかなと思うのです。彼は、父の家、父を思い出したのですが、私は、母の説いた「父なる神」を思い、『捨てられる!』という恐れを痛切に感じたのです。

 凧糸の切れたような男が、酔わなけれが出入りができないような世界に彷徨い入り、実に空虚になって出てくるようなところを通っていたのです。仕事はキチンとこなし、身なりだって青年紳士でしたが、心の想いは不浄で、『おいでおいで!』の誘惑に勝てなかったのです。あんな惨めな思いは忘れられません。

 そんな時に、九州福岡のある教会で奉仕をしている兄を訪ねたのです。一部上場の会社に入って、将来を嘱望されてた兄が、そこを辞めて、貧乏くさく小ぢんまりと、56人の高校生の世話をしながら、生きてる姿を見たのです。『なぜ、会社勤めを辞めて、こんな九州の田舎で、変な生き方をし始めたんだろう?』と思いながも、何か生き生きと、本物を生きていたのです。

 殴られ、蹴られた兄でしたが、カッコいい兄の真似をしながら大きくなって来た自分には、それは《聖なる衝撃》でした。出張の仕事を終え、それから東京に戻ったのです。翌春に、高校の教師に転職していた私に、九州から戻った兄が、『教会で生活をするので、家が空くから使って!』と言われて、二つ返事で、父の家を出て、その家で生活をし始めたのです。

 宣教師が建てた駅裏の教会に、自転車を置いて、通勤をし、帰ってくると、兄の所で夕食を摂る生活になったのです。義理堅い自分は、礼拝に出るようになり、やがて水曜日の聖書研究にも出始め、ついに祈り会にも出るようになってしまいます。まるでニワトリが追われて、ケージの中に追い込まれるように、教会の中に入り込んでしまったわけです。

 創造者、自分の真実な造り主に出会ったからです。このお方が「父」であり、この父の前で、自分が罪人であること(十二分に罪人をしていたのですが)を知って、認めることができて、この父の元に、連れ帰らせてくださったほかに考えられません。母の信仰者の生き方には敬意を持っていましたが、そこまで真剣にはなりたくない、気ままに行きたいと思っていたのに、激変でした。

 これは聖霊のお働きなのです。罪人を、神の子に完全に激変させる業です。ニューヨークの聖書学校の教師の元ボクサーが来られて、自分の頭の上に手を置いて、異言で祈った時、異言を語り出し、罪を悔いたのと赦されたことを知って涙を流して泣き、十字架が分かり、献身の想いが同時にやって来たのです。これも聖霊の業、《五旬節の体験》だったのです。瞬間的なことでしたが、1970年の秋のことでした。

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 『神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテへ1910節)』

 人生には、目的があり、神から託された、社会的な使命があり、なんと伝道者になるべく、学校をやめ、福音宣教の道に入ってしまったのです。宣教師から訓練を受け、任職されて、兄と同じ生き方を始めてしまい、34年間牧会をさせていただきました。そして導かれて、中国で13年間過ごして、今を栃木で、家内と生活しています。 

 人生を、夢と幻で終わらせるところを、永遠のいのちにあずかって、福音の働きに従えたことは、代え難い喜びなのです。ふと思いを現実に向けると、持ち家も持たずに来ました。家具も寝具も台所用品も全て頂き物で、引揚者のように、この街で生活を始めたのです。

 この3週間ほど、次女家族が4人で訪ねてくれたのですが、彼らを寝かせる部屋がなく、四畳半と、台所兼客室に、マットを敷いて、甥っ子も迎えて5人が、鰻の寝床のように過ごしたのです。トイレも浴室も一箇所、なんとか3週間が大過なく過ごせたのです。

 でも賛美もあり、分かち合いもあり、知人の訪問があり、笑いがあふれ、茶碗の代わりにお皿で食事をしても、和気藹々がありました。それでいいのでしょう。日曜日に彼らが帰って行きましたら、家が広いのに驚くほどなのです。いいさ、御国には約束のお屋敷が待っていると賛美にあったように、ゆったりと救いの中で寛げるのですから。それにしても、静かになってしまい、寂しくて仕方がないのです。

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信仰の継承

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 中国での13年間の中で、素晴らしい出会いがありました。素敵に輝いて生きておられるみなさんとは、まるで家族のようにしていただいたのです。街が、朝起きると変わっていると思えるような劇的な変化も見られたのです。清の時代の巷間の木造建築が、三十階建ての鉄筋コンクリート作りのビルに変わって、古き良き時代の遺産が消えてしまうのは残念でした。

 四川省の成都も同じで、三国志に舞台や、杜甫の草庵などは残されていますが、広大に観光用に作られたもので、歴史的な価値はありませんでした。それでも、華南の地域の農村や山村に行きますと、bridge houseのような、橋が建物のような構造になった箇所があったり、三回建ての木造家屋があったり、格子造りの家などもあるのです。

 ヨーロッパはともかく、華南の海浜にある村などは、五代、六代の信仰の継承者がおいでで、幕末の日本に宣教師がやって来たと同じ時期に、香港あたりから上海、上海から船で内陸部に、上海から北の方に海岸伝いに宣教がなされていた、その働きの実が残されているのです。

 先日家内を見舞ってくださった方が、5代目のキリスト教徒で、お子さんたちは六代目で、外面的な状況は厳しくとも、内面的な経験は、きちんと受け継がれていくわけです。イギリスの聖公会の宣教の働きがなされた地です。厦門(アモイ)の街に、この国で最初に建てられた教会堂があって、その定礎の年月が刻まれていました。

 日本には、オランダ改革派の宣教師、JH・バラの伝道で始められた「横浜海岸教会」が、一番古いプロテスタントの教会堂で、学友が、そこのメンバーでしたので、そこで彼の結婚式があって、参列したことがありました。きっと同じ時期に、日中両国のあちらこちらでで礼拝が行われたのでしょう。

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 プロテスタントの礼拝は、アメリカの長老派の宣教師、ジェームス・ヘボンが、神奈川宿の成仏寺に借り受けた広間で、宣教師たちだけで持たれています。密偵が送り込まれ、ことある時には切り捨てられるような緊張の中で、日本宣教や医療、聖書翻訳がなされています。

 中国も日本も、そして朝鮮半島も、同じ時期に欧米からの宣教師によって福音宣教が始められて、その百数十年の歴史があるのです。昭和初期に、山陰伝道をされたカナダ人宣教師の伝道で母が、戦後、マッカーサーが遣わしたアメリカ人宣教師の伝道で義母が信仰を持っています。私たちの孫たちは三代になるでしょうか。

(アモイの教会堂、ヘボンの家族です)

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