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同じ山を仰ぎ、同じ水を飲み、同じ地に産した作物を食べ、同じ空気を吸った人との関係を、「同郷」と言うのでしょうか。父は横須賀、母は出雲の出身でしたから、戦時下の軍命で住み始めた父の勤務地で、父の家族として生まれたのです。
そこは山の中で、近在の人々を集めた、その地域では有名な「神社」の参拝客を泊まる宿屋の離れが、父に割り当てられた住まいでした。そこで、母から生まれ、そこに掘られた井戸水を、その地のたきぎで沸かした産湯に浸かったのです。
それから30年ほど経って、一人で山道をたどって、生まれた家を訪ねたのです。ふるさとは苔むして、生家は朽ち果てようとしていました。記憶の薄い渓谷で、なぜか辺りの匂いに、懐かしい記憶があるように感じたのです。そこから山道でつながった、隣の沢伝いに部落があり、そこに父の事務所と社宅があって、引っ越していたのです。
山奥に索道(cable)でつながり、戦時中は石英を、戦後は、県有林の木材を運んでいた終点、集積場の一廓でした。そこには部落があり、小学校もお寺も農協の出張所も商店も、少しおりて行くと郵便局も茶店もありました。逆に、もっと奥には、満州に開拓した人たちが、終戦後、帰還して入植した開拓地がありました。
父の事務所が、街中の果実店の隅にあって、ここと、山奥の掘り出し地(伐採地)と、移り住んだ部落とにあって、父は、戦時中は馬で、戦後はトラックで行き来していたようです。この父の事務所にあった果実店の店主は、街の青果商組合の責任者をしていた人格者で、私が訪ねるとカツ丼とか鰻丼をご馳走してくれたのです。
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その青果商のおじさんと同じ、苗字の野球選手がいました。読売巨人軍の名内野手の内藤博文です。もうお亡くなりになりましたが、今年のワールドシリーズで、侍ジャパンを優勝に導いた栗山英樹が、プロ選手の頃に、二軍監督で、指導していた方です。
栗山英樹が、こんな言葉を残しています。
『・・・僕自身、ダメな選手だった時に・・・二軍でテスト生の僕は誰からも相手にされませんでした。しかし監督の内藤博文さんだけは練習が終わると「栗、やろうか」とノックを打ってくれたり、ボールを投げてくれたり、いつも練習に付き合ってくれたんですね。・・・さらに落ち込んでいる僕に内藤さんは「栗、人と比べるな」とひと言声を掛けてくださったんです。「俺は、おまえが少しだけでも野球が上手くなってくれたら、それで満足なんだ。」と。』
栗山英樹が、WBCで優勝チームの日本の監督を務めた背景には、こんな素敵な指導者がいたと言うことです。川上や千葉や別所と言った大活躍した選手の陰で、地味な選手して、名門チームに在籍し、目立たなかったのですが、現役を退いた後、優秀な野球指導者の基礎づくりを果たしたことは、特筆に値するのではないでしょうか。
そんな内藤博文の名前を、子どもの頃に知り、一度だけ、後楽園球場(今は東京ドームに代わっています)に兄たちに連れられて、観戦したことがありました。父も巨人軍フアンでしたし、父の事務所の貸し手と同じ名前(おじさんの親戚だったかも知れません)だったこともあって、父からも聞いて知ったのです。
この内藤博文のような人を、「伯楽(はくらく/馬の素質の良否をよく見分ける人。また、牛馬の病気を治す人。人物を見抜き、その能力を引き出し育てるのが上手な人。」と言うのでしょうか。この時代の人材養成は、お金の力が必要になっているようです。高価な道具、科学的なトレーニングルーム、栄養学で考え出されたサプリメントなどが求められて、優秀な選手が生み出されています。でももっと人間的な要素が消えてしまっていないでしょうか。
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