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6年間通った学校の近くに、少年院と刑務所がありました。運動部に入っていた時の冬季練習は、この刑務所の塀の外を、三周回ったのです。その敷地面積26万2058㎡(東京ドーム5、6個分とのこと)です。けっこうな距離だったのです(一周が1.8kmだそうです)。塀の外には、ところどころに、ツツジだと思いますが、ある一廓に生垣がありました。いつでしたか、前を走っていた上級生が、ヒョイと消えてしまったのです。生垣の中に潜り込んで、一周分か、二周分を誤魔化していたわけです。
塀を見上げて走りながら、『いつか、ここに入る時があるだろうか?』と、つい思ってしまったことがありました。高くて、灰色だったでしょうか。娑婆と塀の中とは、1、2mほどの違いで、自由と拘束が仕切られていたのは、複雑な思いでした。
少年院は、門扉の間から中が伺えて、人影は見えなかったのですが、たくさんの同世代が収容されていたのでしょう。ここに入らないでいる自分と、入っている連中との違いをいつも意識していたのです。スレスレのところで過ごしながら、彼らは自由を奪われ、こちらには自由気ままな生活があったわけです。矛盾でしょうか。
入った学校に、” BBS(BIig brothers and sisters )” と呼ばれるクラブがあって、そのクラブにいたことがありました。少年法の学びとか、慰問とか、虞犯の少年少女との接し方、BBS運動の歴史などを学んでいました。ところが深く関わらないまま、卒業してしまったのです。自分の居場所がなかったように感じてです。
そう言ったことに関心があるのは、自分の過去に、そんなことがあったり、自分の兄弟姉妹の中で、警察問題を起こした者とか、家裁送致されたり、鑑別所や少年院に行った者がいたりした学生が、クラブには多かったようです。いつの間にか、この自分が、荒れた思春期の一時期の麻疹(はしか)のような時期を過ごしたことが、つい数年前にありましたから、クラブの活動の対象者のように思えて、境界線がはっきりしなくなったわけです。
今も思い起こすと、ケンカっ早い、危なっかしい自分が、その時期を超えられたのは、母の祈りがあって、神さまの憐れみによったのに違いないのです。必死に祈る母がいて、いつの間にか矯正されていったのでしょう。父からも、母からも説教じみたことを聞きませんでした。不気味なほど、静かだったのです。中学校も、警察も、同じように静かでした。
処罰されて、切れて、ヤケクソになって生き始めていたら、道を誤って、踏み外していたに違いないのに、すんでのところだったのです。〈恥な過去〉、脛に傷を持つ者として、今もその恥を感じるのです。でも、神さまが赦してくださったと、確信できた日があったのです。恥にも、意味があるかなと思うのです。
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華南の街の隣り街から、中年のご夫婦が、私たちの家を訪ねて来られたことがありました。息子さんが、日本で働いていて、何かの事件を起こして、刑務所に入っていると言っていたのです。『日本に帰国したら、ぜひ息子に会っていただけないでしょうか。精神的な病気があるので、その様子を、会って見てきて欲しいのです!』とのことでした。
その息子さんがいたのは、私が高校生の頃、塀の外を走っていた刑務所だったのです。帰国してから、私は刑務所を訪ねて、面会を申し出たのです。しばらく、話し合っていたと思います。『家族以外の面会はできないので、申し訳ありませんが許可するこ
とができません!』との返事でした。それで、差し入れを残して、刑務所を出たのです。
17で心配していた刑務所の入所が、こんな形で叶えられたのです。帰ってから、その経緯を告げ、役立たずの面会をお詫びしたのです。果たせなかったこの依頼は、それで終わったのです。入所でも、面会でも、やはり刑務所は刑務所でした。これからも無縁の領域で終わるのでしょうか。
(「塀」のイラスト、隣国の海です)
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