マナも干飯も

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 江戸の日本橋を発って、江戸の街の西の城殿内藤新宿、武蔵府中、八王子、上野原、甲府を経て、信州の下諏訪に至る、四十四次の甲州街道がありました。東京に出て来てから、2度目に住んだのが、この旧道の脇に、父が買った家でした。13年近く住んだと思います。

 まだ舗装されていない坂道の途中でした。そこに大きな樫の木が植えられていました。子ども手ではふたかかえもの幹の巨木だったでしょうか。その木の枝の又の所に、竹笊(たけざる)に入れたご飯を、母が干していたのです。今のように、電気やガスの釜で焚く時代ではありませんでしたから、薪を燃料に、鉄の釜で炊いていました。

 その釜の底には、お焦げなどがへばりついていたのです。今のように、電気やガスの釜で炊く時代ではありませんでしたから、釜の底に、ご飯粒が焦げてへばりついていたのです。そんな釜に水を入れて、ふやかした米粒を、決して捨てたりしないのです。「ほしいい(干飯)」の保存食に、母がしていたわけです。無駄にしない工夫でした。

 13年の間住んだ記憶で、木の股に置かれた竹で編んだ笊の記憶だけが鮮明なのです。その干してある干飯を、摘んで食べたことはありましたが、食卓に載ることはありませんでした。炊いたご飯は、父と四人の子に食べさせて、母は、子どもたちに背中を向けて、台所の立って、それを頬張って食べていたのでしょう。

 今では、カロリー・メイトだとか、カンパン、インスタントラーメン、チョコバーとか、携行食、保存食がありますが、戦国の世、戦場を駆け巡る兵が、袋に入れて持ち歩いて、食べていたのでしょう。「戦国時代の保存食」と言われますが、どの家庭でも、そんな風に、食べ物を大切にしていたのです。

 「パッカンのおじさん」と呼んだ方が、リヤカーに、魚雷のような形の鉄と網でできた筒を載せて、時々やって来ました。そこに米とお金を持っていくと、その中に、少量の甘味料を入れて爆発音とともに、米粒が干飯のようになって出て来たのです。すごく美味しいおやつでした。今でも、袋入りのパカンが、スーパーでも売られているのです。これは保存食にはならなそうです。

 忍者が食べた携行食の話を聞いたことがあります。鰹節とか木の実とか薬草を丸めて、保存食にして持ち歩いていたのだそうです。それが食べたくて仕方がなかったことがありました。

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 『主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。 六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」(1645節)』

『イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。(出エジプト1631節)』

 そういえば、40年間、荒野を旅したイスラエルの民に、神さまが備えられた「マナ」は、どんな味だったのでしょうか。食べていたイスラエルの民が、すぐに不満を漏らしたのだと、聖書にありますが、感謝が足りないのは、人の世の常のようです。

 これこそ、栄養学的も理想的な食べ物でした。神さまの、憐れみによって与えられた、保存の効かない、一日一日に早朝に天から降って、与えられた食物だったのです。

(「干飯」、森永乳業が販売していた「マンナ」です)

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