思い出から消えていくもの

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 JR中央線に、いくつかの名物がありました。駅舎でユニークだったのが、国立駅、日野駅、豊田駅、高尾駅(浅川駅)でした。学園都市の国立には、一橋大学、国立音楽大学、東京女子体育大学、桐朋学園、国立高校、第五商業高校、国立小学校などがありました。その駅舎を何度振り返ってみたかも知れません。

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 国立駅から二つ目が日野駅で、駅舎が農家の茅葺(今は、トタン葺き)と同じで、独特な佇まいでした。日野自動車、小西六(コニカ)、羽田ヒューム管、オリエント時計、神鋼電機(神戸製鋼所)などの大手の会社がある街で、かつては宿場町で、多摩川の渡し船が、立川との間を結んでいました。ここに踏切があって、そのメカニズムや仕組みを、面白くて科学していたことがあります。

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 この駅の近くに引き込み線もあり、ほろ苦い思い出の場所でもあります。貨車の最後部の車掌室の固い椅子に横になって、夜を明かすと言うのは切ないことでした。お腹は減るし、水だって飲みたいし、ほろほろと鳥は鳴き、犬も遠吠えしていました。引き込み線のメカニズムだって、おかげで学べたのです。

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 日野駅の隣りが豊田駅で、今では、もう面影が残っていませんが、駅舎は開業当時は独特でした。日野台団地と浅川との間の段丘に、線路が走っています。公団住宅による多摩平団地が、1958年に作られ、大東京の西のベッドタウンとして注目されていました

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 中央線の終点が、浅川駅でした。のちに高尾駅に駅名の変更がありましたが、ここも、高尾山の下車駅で、何度もこの駅から山に登り、相模湖に下って、ハイキングをしたことがありました。八王子と高尾の間には、西八王子駅があり、多摩御陵(大正、昭和の天皇の墓所)の至近の駅です。でも、昭和初期には、京王電鉄が、ここまで線路を敷設し、御陵駅があったそうです。

 父や兄妹や父と共に、通学や通勤途で、JR中央線が長らく利用したのですが、級友と電車に乗り合わせて、一緒に通った思い出があります。学校の下車駅の駅名の看板に、悪戯書きをしたのを、高等部の国語の教師で、「奥の細道」の特攻をしてくれた教師に見つけられ、『消しゴムを持って、消してきなさい!』と注意され、共犯の級友と消しに行ったことがありました。

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 別の級友が、三鷹駅の近くに住んでいて、広い車輌センターの近くで、線路に入って、十円玉を、線路の上に置いて、走ってくる電車の轢かせて、薄べったい硬貨作りをしていました。危険極まりない悪戯でしたが、国鉄からも学校からも見付からずにすんでしまいました。その子の家の近くに、跨線橋があって、そこも遊び場でした。

 その跨線橋は、太宰治が利用したことで有名でしたが、今年末、2023年の12月に撤去されるのだそうです。鉄橋の撤去、駄洒落にもなりませんが、懐かしい景色が、思い出の中から消えていくのは、ちょっと寂しいものです。もう一度渡ってみたいものです。吉祥寺駅も西荻窪駅、荻窪駅も阿佐ヶ谷駅も、時々利用してきました。

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 『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」(黙示録21章4〜5節)』

 過去の出来事、出会い、別れ、そして涙、悲しみ、叫び、苦しみなどは、消えたり、薄れたりしておぼろげになりますが、それでいいのでしょうか。もしそれらが鮮明過ぎてしまったら、今がボケていってしまうかも知れません。今は一箇所にとどまり、行動範囲が狭くなったこともあり、新体験は少なくなりましたが、《新発見》はできそうです。聖書は、新しい天と新しい地とが、やがて到来し、『みよ、わたしは、すべてを新しくする。』と、主イエスさまは言っておられるのです。

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