初秋のベランダで

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 夕陽が落ちていく頃の、西陽の暑さが尋常ではないのです。焼け焦げそうな、と言うのが一番相応しそうな表現です。『いつまで続くぞこの暑さ!』ですが、もう一週間ほどでしょうか。少しだけ涼しく感じられる夜半、蚊に刺されてしまいました。暑さが蚊の出没を押しとどめていたのですが、秋らしくなった今頃に、満を辞していた蚊が、出てきたのです。蚊帳を張るかどうか思案中です。

 でもベランダでは、近年になく朝顔が、盛りの季節を続けて、青々と葉が茂り、花を開花しています。負けじと、白桔梗とペチュニアが咲いてくれています。慰めの花で、一息ついております。

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いつも、あなたがたとともにいます

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 『私はまた人間の孤独を、この砂漠の夕ぐれにしみじみと味った。恐らく人間ほど孤独なものは宇宙間にないであろう。他の動物も孤独ではあろうけれども、かれらはそれを痛感しない意味に於て孤独ではない。しかるに人間は集団的の生活をしていて、家族があり、友人があり、おおくの知人があり、十八億の同族を地上に持っていて、孤独ではない筈であって、実は限りなく孤独である。そこに人間の孤独性の深刻さがある。(『著作集』第11巻.274頁)

 『孤独は人間本来のすがたである。人にして孤独ならぬ者は一人もない。衆とともに在るときも孤独である。ひとり在るときも孤独である。孤独は人間本来のすがたであるから、その在る場所によって左右されるものではない。(『著作集』第12巻.148頁)』

 これは、畔上賢造が書き残したことばです。この方は、早稲田に学んでいた時に、内村鑑三の主催する聖書研究会に出席し、多大な霊的感化を受け、信仰上のことを学んでいて、中学校の教師をさrw、後に独立伝道者として生きた人でした。

 この畔上賢造、その人となりは、1884(明治17年)に長野上田で生まれ、早稲田大学で学び、その在学中に内村鑑三の門下生となり、キリスト者となります。無教会の群れに属していますが、少なくとも、内村や矢内原や藤井、そして畔上賢造の書き残した著作を読みますと、聖書的ですし、福音的です。教会の在り方に対相手の考えにこだわりがありますが、正統に属するのではないでしょうか。

 「孤独」について、信仰者として、そう私たちが感じるのは、人間関係が上手でないからではなく、畔上賢造は、本来的に人間が孤独な存在だと言っているのでしょう。〈神の前に一人立つ〉と言う考えなのでしょうか。群れる人に迎合しないと言う意味ででしょうか。日本に1.26億人がいて、世界に80.45億人(2023年現在)いたとしても、私一人が、この地上にあります。

 その上、キリスト者としての孤独、信仰上の理由での孤独を味わう時もあります。これとて、私たちの正常な感じ方であるのです。私は、父に家に入れてもらえず、林の枯れ草を集めた中で、夜空を仰いで、一夜を過ごした時の独りぼっちさは、今でも覚えています。長じて、したたかにお酒を飲んで、酔いが覚めつつあった時、家にトボトボ帰って行った時に感じた孤独感も忘れられません。

 イエスさまは、孤独でした。そのことを、ヨハネが、その福音書の中で、次のように記しています。

 『イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ163133節)』

 十二弟子たちと、3年半の間過ごして来た弟子たちに向かって、『わたしをひとり残す時が来ます。』、とイエスさまが言われています。弟子たちは、この世の迫りで、散らされて、自分たちの家に帰って行き、主イエスさまを置き去りにするのです。まさにその通りになります。
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 人であるイエスさまは、一人で、十字架に進まれて行かれたのです。私たちが真性の人間であるように、イエスさまも真性の人でした。同じ信仰を持つ人の一人もいない職場の中で、キリストの弟子として生きるための孤独を味わったことが、私にもありました。イエスさまは、「父がわたしと一緒におられるから」と仰ったように、私にも御父が一緒にいてくださったのです。

 ところがイエスさまが、十字架にかけられた時に、次のように、父なる神さまに向かって仰ったのです。

 『そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マルコ1534節)』

 生まれる前から、人になられた時から、一瞬たりとも目を逸らされることのなかった父が、十字架上のイエスさまから、目を逸らされたのです。これは、「罪となられた御子」を、聖なる御神は、直視することができなかったからです。罪を犯すことのなかったイエスさまが、罪そのものとなられたからでした。

 その御父の視線が逸れた瞬間に、「見捨てられた」ことがお分かりになられたのです。

 『彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。 (マタイ175節)』

 父の神の愛と喜びの対象であった御子が、御父にも見捨てられたのです。これは、イエスさまの究極、極限の「孤独」だったのではないでしょうか。そう言ったところを通ることなく、十字架の贖いは成就しなかったからです。

 『しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。 (使徒224節)』

 御父は、イエスさまを、死の苦しみから解き放たれ、『よみがえせました』のです。イエスさまは、今父なる神さまの右に座され、執り成しをしていてくださり、助けぬ愛精霊をお送りくださり、私たちのために場所を設けておられ、その場所が用意されたら、迎えに来てくださるとお約束くださったのです。私たちは、独りぼっちではありません。『見よ。世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(ヨハネ2820節)』と、私たちに、イエスさまは仰っておられるのです。

(“Christian clip arts” からです)