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『人を個人として見るように・・・どの民族にも、よい人も悪い人もいること。・・・民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない!』
第二次世界大戦中に、ポーランドに侵攻したナチス・ドイツが、ユダヤ人をゲットーと呼ばれる収容区域に閉じ込め、やがてアウシュビッツなどの収容所に、強制的に送り込み、大量殺害を行った、悪夢のような出来事がありました。
ワルシャワのゲットーから、奇跡的に逃れたピアニストのウワディスワフ・スピルマンが、ご子息に語った言葉が、これでした。あんな酷い民族絶滅計画を行ったドイツに対して、こんな寛容な言葉を残しているのに、驚きました。
長く住んだ街の隣街の文化会館で行われた講演会で、講師のスピルマン氏が、《父のことば》として、ご自分に語られたものでした。お父さんのご家族は、全員が収容所に送られたのですが、あの蛮行の行われた時代、彼だけが一人逃れることができ、生き残るのです。
砲弾で町が壊滅的な被害を受け、その瓦礫の中を彷徨っていた彼は、ドイツ軍将校のヴィルム・ホーゼンフェルトに見付かります。スピルマンの職業を聞くと、ピアニストであることを知った彼は、ピアノの演奏を命じるのです。スピルマンが弾いたのが、「バラード一番ト短調 」だそうです。それを聞いたホーゼンフェルトは、スピルマンに食料を与えています。それで彼は生き延びられたのです。その様子が、「戦場のピアニスト」に感動的に描かれていました。
ホーゼンフェルトは、同じように60人ほどのユダヤ人を助けていて、イスラエル政府から、「諸国民の中の正義の人」の一人として称号を受けています。しかしソ連軍の捕虜となって、セパン捕虜収容所で病気で、称号を与えられる前に亡くなっています。
そう言ったドイツ人から助命された関係で、このことば語ったのです。戦後、名ピアニスト、名作曲家として活躍したスピルマンは、戦争の終わった後を生きていく息子に、そう言ってことばを残したわけです。
私たちの国には、「恨み骨髄」、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言われたりしますが、聖書には、次のようなみことばがあります。
『復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。 (レビ19章18節)』
ユダヤ人が、父から子へと教えられて来ている、「モーセ五書」の教えの中に、そうあるからでしょうか、スピルマンは、民族として屈辱を味わった過去に対して、そう助言を子に残したのです。
13年間、隣国で過ごして、多くの若いみなさんに日本語を教えました。戦争責任を感じている私に、『先生と、あの戦争とは関係ありません。いけなかったのは、日本の軍人と当時の政府の指導者たちです!』と言っていました。東北地方から来ている学生や教師たちが、教会にもおいででしたが、異口同音、戦争責任での反感はありませんでした。
ただ、尖閣諸島の領有地の問題が起こった時に、教員住宅の一階に住んでいましたが、庭先に出るポーチの上に、レンガ片が2、3個落とされていただけでした。総じて、華南のみなさんの対日感情はよかったのです。多くの方の親族が、日本の出稼ぎに行っているからでした。
子スピルマンのクリストファー・W・A・スピルマンは、西南学院大学、九州産業大学、拓殖大学などで教鞭を取られた「日本政治思想史」の研究をされておいでです。
(「戦場のピアニスト」、「現在のワルシャワ市街」です)
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