[ことば]夢幻の如くなり

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思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

人間(じんかん)五十年、下天(化天)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

 これは、幸若舞「敦盛」の一節です。源平合戦で若くして没した平敦盛への思いを詠じていると言われ、織田信長が好んで舞ったのだそうです。本能寺で、明智光秀に撃たれて果てるのですが、今生の最後に、これを舞ったというのは後世の創作のようです。

 人生とは、夢幻、虚像、嘘で塗り込められている時の連続なのでしょうか。人は、それに翻弄されて、矢の如く去っていき、アッという間の「刻(とき)」を過ごして、一生を終えてしまうのでしょうか。

 今生のことは「夢幻の如し」なのでしょうか。人の世の儚さを、もう既に感じていた青年期に、生きるって、随分とつまらないなと思い、本物に戻ろうとしない時期を過ごしていたように思い出されます。母の教えに背いて、表向きは好青年で、世評は高かったのですが、心の中も隠れた生活もドロドロでした。

 『これじゃあいけない!』、闇の中に、奈落の底に堕ち込んでしまうような、言い知れない恐怖心を覚えたのです。思うに、放蕩に身をやつした弟息子が、他国の空の下で感じたのも、そんな思いだったのかなと思うのです。彼は、父の家、父を思い出したのですが、私は、母の説いた「父なる神」を思い、『捨てられる!』という恐れを痛切に感じたのです。

 凧糸の切れたような男が、酔わなけれが出入りができないような世界に彷徨い入り、実に空虚になって出てくるようなところを通っていたのです。仕事はキチンとこなし、身なりだって青年紳士でしたが、心の想いは不浄で、『おいでおいで!』の誘惑に勝てなかったのです。あんな惨めな思いは忘れられません。

 そんな時に、九州福岡のある教会で奉仕をしている兄を訪ねたのです。一部上場の会社に入って、将来を嘱望されてた兄が、そこを辞めて、貧乏くさく小ぢんまりと、56人の高校生の世話をしながら、生きてる姿を見たのです。『なぜ、会社勤めを辞めて、こんな九州の田舎で、変な生き方をし始めたんだろう?』と思いながも、何か生き生きと、本物を生きていたのです。

 殴られ、蹴られた兄でしたが、カッコいい兄の真似をしながら大きくなって来た自分には、それは《聖なる衝撃》でした。出張の仕事を終え、それから東京に戻ったのです。翌春に、高校の教師に転職していた私に、九州から戻った兄が、『教会で生活をするので、家が空くから使って!』と言われて、二つ返事で、父の家を出て、その家で生活をし始めたのです。

 宣教師が建てた駅裏の教会に、自転車を置いて、通勤をし、帰ってくると、兄の所で夕食を摂る生活になったのです。義理堅い自分は、礼拝に出るようになり、やがて水曜日の聖書研究にも出始め、ついに祈り会にも出るようになってしまいます。まるでニワトリが追われて、ケージの中に追い込まれるように、教会の中に入り込んでしまったわけです。

 創造者、自分の真実な造り主に出会ったからです。このお方が「父」であり、この父の前で、自分が罪人であること(十二分に罪人をしていたのですが)を知って、認めることができて、この父の元に、連れ帰らせてくださったほかに考えられません。母の信仰者の生き方には敬意を持っていましたが、そこまで真剣にはなりたくない、気ままに行きたいと思っていたのに、激変でした。

 これは聖霊のお働きなのです。罪人を、神の子に完全に激変させる業です。ニューヨークの聖書学校の教師の元ボクサーが来られて、自分の頭の上に手を置いて、異言で祈った時、異言を語り出し、罪を悔いたのと赦されたことを知って涙を流して泣き、十字架が分かり、献身の想いが同時にやって来たのです。これも聖霊の業、《五旬節の体験》だったのです。瞬間的なことでしたが、1970年の秋のことでした。

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 『神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテへ1910節)』

 人生には、目的があり、神から託された、社会的な使命があり、なんと伝道者になるべく、学校をやめ、福音宣教の道に入ってしまったのです。宣教師から訓練を受け、任職されて、兄と同じ生き方を始めてしまい、34年間牧会をさせていただきました。そして導かれて、中国で13年間過ごして、今を栃木で、家内と生活しています。 

 人生を、夢と幻で終わらせるところを、永遠のいのちにあずかって、福音の働きに従えたことは、代え難い喜びなのです。ふと思いを現実に向けると、持ち家も持たずに来ました。家具も寝具も台所用品も全て頂き物で、引揚者のように、この街で生活を始めたのです。

 この3週間ほど、次女家族が4人で訪ねてくれたのですが、彼らを寝かせる部屋がなく、四畳半と、台所兼客室に、マットを敷いて、甥っ子も迎えて5人が、鰻の寝床のように過ごしたのです。トイレも浴室も一箇所、なんとか3週間が大過なく過ごせたのです。

 でも賛美もあり、分かち合いもあり、知人の訪問があり、笑いがあふれ、茶碗の代わりにお皿で食事をしても、和気藹々がありました。それでいいのでしょう。日曜日に彼らが帰って行きましたら、家が広いのに驚くほどなのです。いいさ、御国には約束のお屋敷が待っていると賛美にあったように、ゆったりと救いの中で寛げるのですから。それにしても、静かになってしまい、寂しくて仕方がないのです。

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