老松の残る街の片隅で

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 一見して、昔の名残りでしょうか、両岸の間を綱手道に挟まれて、5メートルほどの水路、これが巴波川です。この流れのほとりに住み始めて五年になろうとしています。朝にも昼にも、白鷺が流れに立って餌取りをし、その間を鯉が泳ぎ、時々カモが侵入して来ます。

 水の中に、水草が茂り、流れの中で逞しく青々としています。線状降水帯での集中豪雨で水かさが増して、綱手道を被るほどになってしまいました。水が引くと、青草を見せています。そんな繰り返しをする流れを朝な夕なに眺めながら、実に静かな生活をしているのです。

 元々は湧き水を源とする川なのだそうですが、雨水を集めて流れ下っていきます。鉄道や自動車の交通手段ができる前、江戸時代初期から、明治頃にかけて、「舟運(しゅううん)」で、商都として栄えた街なのです。江戸の木場や河岸あたりを行き来したのです。

 越して来たばかりの頃、この舟運のお仕事を、江戸時代から家業とされていた家が隣りにあって、このアパートの前の大家さんのお姉さまの家で、お金の出し入れ帳とかハッピなどがあって、それを見せていただいたことがありました。

 家内と私と同世代なので、時々行き来もし、ラジオ体操仲間で、ここの自治会の婦人会長もされていた方です。庭に、数百年と言われる物言わぬ老松があって、そちらに植え替えても、ずっと植えられ続けているのだそうです。松にだけではなく、川の流れにも、空気に流れにも、歴史が感じられるのです。

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この松には目はないので、移り変わる世の動きは見ることはできませんが、世相、豪雨、洪水、地震、疫病、戦争、平和などを、幹ごと感じながら、今日も、植えられた家の隙間に見ることができます。

 この松も感じた栄枯盛衰、この街の繁栄、そして衰退を経て、年寄りばかりの旧市街の一角に住んでいるのです。観光客に、巴波周覧の観光用の舟が、竿刺しながら運行しています。その船を「都賀舟」と呼び、渡良瀬川あたりまで船荷を運び、そこから高瀬舟に荷を積み替えたのだそうです。巴波の流れを操りながら、船子たちが歌った唄です。

栃木河岸より都賀舟で
流れにまかせ部屋まで下りゃ
船頭泣かせの傘かけ場
はーあーよいさーこらしょ

向こうに見えるは春日の森よ
宮で咲く花栃木で散れよ
散れて流れる巴波川
はーあーよいさーこらしょ

 営営となされて来た営み、人の生業、出入りや行き来など、巴波の流れを眺めると、最盛期の賑わいの音が聞こえて来そうです。物流はともかく、遠く離れた江戸の文化も芸術も伝えられて、けっこう文化度も高い街であったのです。

 ここは、日光へ行く、日光例幣使街道の宿場町でもあって、春の家康の命日に、京都から毎年やって来る、公家の一行が、我が物顔で、住人に迷惑をかけていたのだと聞いています。それほど、身分の偉さを振り撒きながら、嫌われもにはなかったのだそうです。エリート意識の強さって、芬芬(ふんぷん)もので、厄介な一団だったわけです。

 そんな人の往来の激しさのあった道も、映画館も遊技場もあったのですが、今では裏通り、その面影を感じさせますが、やはり〈寂れ〉を免れません。駅前には、大きなスーパーが、御多分に洩れずあったのでスすが、バイパスができて、商業中心が移ってしまっています。いつでしたか、倉敷へ行って、駅の方に歩いた時、街並みがシャッター街であったのが、強烈な驚きの印象でした。

 近郷近在から、めかして出掛けてき来て、買い物や遊びのために、この石畳の街を歩いた、人の草鞋や草履や靴の音が聞こえてきそうです。

(巴波川の観光船、松のイラストです)

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