私たちの国籍は天にあります

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 私は、三島の作品を読んだことがありません。とくに強い個性の持ち主で、彼の軍国主義的な考えや行動を知っていました。その考えに影響されそうに恐れを感じて、避けたのです。その上、彼が性的な倒錯者だと知ったからでもありました。上の兄が、放火に至る主人公の心の軌跡などを、三島が書いた「金閣寺」を読んでいましたが、それを借りることをしませんでした。

 それが良かったと、大人になって、三島の生育歴を読んで分かったわけです。都内の学校で教師をしていました1970年の秋に、近くの食堂で、昼食を摂っていました。テレビがかかっていて、自衛隊の市ヶ谷駐屯地にあった、東部方面総監室のバルコニーに、日の丸の鉢巻をした軍服姿の三島由紀夫が立って、「檄(げき)」を飛ばしている様子が、テレビの特別報道番組で放映されていたのです。

 それからのことは、後に知ったことです。平和な秋の終わりに、自衛隊の部隊に決起を呼びおかけたのです。まず総監室に四人の青年たち(楯の会会員)と共に、訪問客のようにして平穏に入ります。三島が持参した、日本の名刀・関孫六を軍刀に直したものを、総監に見せます。刀の話題で話し合っているうちに、会員が総監に猿轡を噛ませ、監禁し占拠したのです。

 隣室の自衛隊幹部たちが、これに気づき、総監を守ろうと乱闘となるのです。その後、バルコニーに出て、演説(決起を促すもの)をしますが、賛成を得られず、結局、総監室に戻り、森田必勝と二人、自決して果てるのです。三島45歳、妻と二人の木がいた男盛りでした。25歳だった私は、この日、テレビを観て驚きました。三島と行動を共にしていたのは、私たちの世代の青年たちでした。弟と私のそれぞれの同窓の後輩たちが、その仲間にいたのです。

 こう言ったことでは、日本は変わらないのです。皇国史観や国粋的なもの、大和魂の堅持で、国を変えようとするなら、武闘になり暴力と成り下がるのです。青年たちの想いに、強烈な影響を与えたことは、文学の力ではなく、武闘魂の働きです。国を思うあまり、国を滅ぼすことになるのは、残念なことです。

 上智大学の福島章の著した「愛と性と死〜精神分析的作家論〜小学館刊」の中に、この三島が取り上げられていました。物書きの生育歴を、精神分析家としての著者が取り上げたものです。坂口安吾、太宰治、中原中也などと共に、この三島が取り上げられています。

 裕福な家庭で、三島は育っていますが、「おばあさんの子」として幼少期を過ごしています。可愛い孫を、母親の手から奪い取って、陰湿な老いと病の匂いの立ち込める奥座敷に閉じ込められて育ちます。遊び相手は、近所の女の子たちだったのです。そんな子どもの頃の経験が、三島の手で書き残されているのです。

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 『最初の記憶、ふしぎな確たる映像で私を思い悩ます記憶が、そのあたりではじまった。(中略)私はそのだれか知らぬ女の人に手を引かれ、坂を家の方にのぼって来た。(中略)肥桶を前後に担い、汚れた手拭いで鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏み分けながら坂を下りて来た。汚穢屋ー糞尿汲取人ーであった。彼は地下足袋を穿き、紺の股引を穿いてゐた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。(中略)

 私はこの世にひりつくような或る種の欲望があるのを豫感した。汚れた若者の姿を見上げながら、「私が彼になりたい」という欲求、「私が彼でありたい」という欲求が私を締めつけた(「仮面の告白」)』

 歪んだ母性愛(2母ではなく祖母からの異常な愛)を幼年期に受けて、三島が出来上がって行きます。ある時期から、「強い肉体」を求めて、剣道やボディービルディングを三島は始めます。青白い文学青年が、筋骨を誇る男に変身していくのを、何かの若者系の雑誌で読み、見ただことがありました。

 もちろん幼児体験だけがが、人の一生を決めてしまうのではないのでしょうけども、もう、性倒錯などということばは、性の多様さの時代だと言われて、市民権を得たように考えられている今では、時代遅れになっているのでしょうか。

 気になるのは、1945815日の敗戦の日に、『自分は死に遅れた!』との思いを、三島が持ち続けながら戦後を生き、1970年、敗戦25年の時を経ているのに、過去の亡霊のまやかしの中、あのような形で死んだのではないかとといった事件の背景も語っている記事も気になります。私の不安定な青年期に、国粋的な考えを持って、「大和魂」を追い求めていた時期があったのを、今は恥じるのです。

 『けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 (ピリピ3章20節)』

 この事件の一年後に、一面では、母の信仰を受け継ぐのですが、聖霊なる神の促しによって、曖昧だった信仰が、はっきりさせられて、今日に至っております。日本人であるよりも、「神の国」に国籍を持たせていただいた者として、生きていくことこそが、真実な生き方なのだと思い至ったからであります。

(戦後78年にもなる「市ヶ谷」の駅周辺の様子、ままごとです)

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