平家の里にて

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下の数字記号は video です。

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 結婚記念日で、訪ねた訪問先は、旧栗山村(現在は日光市に合併されています)です。〈最後の村〉だったそうですが、住民は、合併には賛成でなく、平家の落人の誇りを守りたかったのでしょうか。

 この街中を、湯西川が流れています。奥山から流れくる清流なのです。その川床が「粘土質」で出来ています。それを「滑床(なめどこ)」と言います。小学生の頃に、多摩川を渡る旧国鉄の鉄橋下に、ここと同じ粘土質の川床で、その上に橋脚が置かれていて、潜ると、それを見ることができました。

 川に足を入れてはみませんが、流れを見ますと、浪床の上を綺麗な水がしぶきを上げて流れていました。その瀬音に慰められます。35年ほど前に、野岩鉄道が営業を始めてから、両室な温泉をねあての観光客が来られる様になったそうです。

 お昼ご飯に、蕎麦屋に入り、食後、店の前の商店に入りましたら、地味との方が話しかけて来て、『移住してらっしゃいよ!』と誘われてしまいました。散歩しますと、廃屋も多く、しっかりした家屋も、住み手がおられないままの家が多くあります。

 この村を出て、生活を確立されている世代は、戻ってくるのは、大変だろうなと思ってしまいます。診療所、警官の駐在所、消防支署、小さな美容室があり、食材は引き売の車が、週に2回来るのだそうです。

 宅急便の車を見掛けましたから、まあ、生活に困ることはなさそうです。移住への誘惑は、ちょっと考えさせられてしまいました。余所者(よそもん)を受け入れてくれそうですが、通院の便を考えると、1日6便のバス運行では、大変そうです。こう言う時に、『運転免許証の更新をしておけばなあ!』と悔やんでしまいます。

 こんな自然美、天然感を味わえたら、少々の不便も苦にならなさそうです。救急ヘリコプターで、駆けつけてくれそうですし、重く誘惑されてしまいました。

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助言

 

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 『彼とともに育った若者たちは答えて言った。「『あなたの父上は私たちのくびきを重くした。だから、あなたは、それを私たちの肩から、軽くしてください』と言ってあなたに申し出たこの民に、こう答えたらいいでしょう。あなたは彼らにこう言ってやりなさい。『私の小指は父の腰よりも太い。(1列王1210節)』

 人は、だれでも初めての人生の出来事、事件、体験をしようとする時に、『どうしようか?』と迷います。それまで経験したことがない局面に立たされて、迷ったり、悩んだりしてしまいます。だれかからの「助言」を必要としています。その時に、大切なのは、『だれの助言に聞くか?』です。これほど、大切な問い掛けはありません。

 イスラエルの王家の後継者であったレハブエムは、父の時代の悪政を改めてほしいと陳情者たちがやって来て、税の軽減を願ったのです。どんな内容だったかが、記されてあります。

 『あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」(1列王124節)』

 その陳情を聞いた彼は、〈父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たち〉に聞きました。

『彼らは王に答えて言った。「きょう、あなたが、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答え、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう。」(127節)』

 それは穏やかの忠告だったのです。この長老たちの進言に、彼は聞くべきでした。ところが、その長老たちの助言を退けて、〈彼とともに育ち、彼の仕えている若者たち〉の意見を聞き入れてしまったのです。彼が元々目論んでい多物に、若者たちは、〈ヨイショ〉をしただけでした。

 仕事柄、多くの人が相談にやって来られて、お聞きしたことがわたしたちにありました。ある人たちは、もう自分の思いの中では、どうするかを決めてしまっていて、その決定の確証でしょうか、承認、同意を得たくて来られるのです。その方たちの決定ではない、反対の助言を私がすると、怒り出して帰って行かれました。

 進学、就職、恋愛、結婚、誕生、家庭、金銭、生活、終活、葬儀などなど、いつも初めて直面する場面、また繰り返される問題が、人生には溢れています。「双六(すごろく)」が、一歩一歩、サイコロを振って進んでいく様に、〈上がり〉の時が迫っている今、《どう終えるか》が、喫緊の課題です。

 死に逝く人の手記などが多くありますが、「死後の命」のあることを信じている私は、ある面では不安解消されているのです。でもやがてやって来る、この新体験、未知の「死」について、どんなことなのだろうと思うことが多いのです。

 『主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。 (詩篇394節)』

 これはダビデのことばですが、まさにわたしのことばでもあります。〈生のはかなさ〉ですが、これを無視することはできません。「儚い」と漢字表記をしますが、ここにだけ思いを向けますと、「死」に圧倒されてしまうのが人です。だから、死の対にある「生」に思いを向ける様に、聖書は、《生きること》を多く語るのです。

 『まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ・・・主を求めて生きよ。(アモス546節)』

 これが聖書の勧め、助言、命令なのです。生かされている間、おのれの生を生きる責任を負っているのです。

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ316節)』

 人の「生」は、《永遠》に向かってのものであって、〈今生〉だけのものではないと、聖書は言うのです。人の齢(よわい)は70年、健やかであっても80年」で、その限られた年月を、ヨロk9んだり、悲しんだり、傷つけたり、傷ついたり、癒されたりの切り返しを過ごすのです。さあ、「真実な助言」に聞き従って、生きてまいりましょう。

(”キリスト教クリップアート“ のイラストです)

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