太初

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 「新約聖書」の、ヨハネの福音書の最初のことばは、次のように記されて始まります。

『太初(はじめ)に道(ことば)あり、道(ことば)は神と偕(とも)にあり、道(ことば)は即(すなわち)神なり(文語訳)。』

 「道(ことば)」は、logos (ロゴス/ギリシャ言語でλόγος )です。中国語訳も「道 dao 」と訳されています。ユダヤ系の聖書研究者によると、「アラム語(イエスさまが語られた日常会話語)」では [メモラ]と言うそうです。あの父に呼びかける、『アバ!』と言う呼びかけの『ちゃん!』も、このアラム語なのです。

 何もない中に、初めからおられたのが、「神」であるからです。英語は God 、ヘブル語は EL (ヤーウェ、エロヒム、アドナイetc.)、韓国語は ハナニム(하느님)、これらは、《唯一神》を意味していると言われます。各々の民族や氏族や部落が、それぞれに持つ様な神、自分たちにだけ良くしてくれる神ではなく、万人共通の「ただお一人の神」しかおられないに違いありません。

 聖書は、そう断言してから、書き始めています。初めに、神がおいでなのです。『微細な物質、原子があって、それが想像を絶する時間の中で、結合したり分離したりして生命体が作られ、生命体が複雑に関わり合って、高等生命になり、私たち人間になっていった。』と言う解説では説明しきれないのに、現代人の多くは、それで納得しています。

 神の創造なんて信じられないと言うなら、その進化した生命の存在も、荒唐無稽で尚更信じられないのではないでしょうか。

今操作している iPad ですが、どなたも進化の結果の産物だとは思われません。Apple社の研究や設計によって、生産されたた、驚くべき電子機器です。こんなに薄く、小さないのに、世界の隅々にまで、電波を通してつながり、様々な情報を発信しているのを、受け止めて知らせてくれます。

 この宇宙や地球や人に、設計者はいなくていいのでしょうか。製造者がいなくて、偶然の積み重ねによって存在しているのでしょうか。息子や娘や孫や兄弟や友人や知人、自分の国やウクライナ戦争や人口問題や食糧問題、環境問題や健康問題などなどのことを考えて、悲しんだり喜こんだり、心配したり安堵したりしている「思い」は見えませんが、実際にあります。

 そうしているわたしに、必ず設計者と創造者がいます。『初めに神が。』と言って書き出す聖書は、すべての原点、出発点が、「神」だと言うのです。いつも思い出すのは、同志社の新島襄が、漢訳聖書の『起初神创造天地。』と言う巻頭言を読んで、『神がいるとするなら、この神が神に違いない!』と信じたと伝えられています。

 神はおいでになられます。このお方は、義、聖、愛、忠実、柔和なお方です。聖書を読まれるなら、さらに神のご性質やなさっておられることを知ることができます。わたしが、知ることができたのは、まだほんの一部に過ぎません。パウロは、『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。 (エペソ119節)』と、神を知ることにできる神だと言って、知ることを勧めています。

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撮る

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 「古写真」を見るのが好きな私は、本屋や図書館の写真集コーナーに行って、棚の写真集を開いて、古い街の様子や生活や人を、よく見てきました。現在でも、ネットで探して見ることが、時々あります。古い街並みが、田舎には残っているのです。上海は、近代化したアジア第一の都市ですが、外国航路の波止場付近は、昔の面影を残していて印象的でした。

 日本の写真家に、木村伊兵衛とおっしゃる方がいました。1901年に東京で生まれ、報道写真家として活躍された方です。この方も何冊もの写真集を出しておいでです。この木村伊兵衛は江戸っ子でしたが、秋田に魅せられた人で、生涯に22回も秋田を訪ねています。

 そこにある古い日本の風景と生活と人を訪ねたかったのでしょうか。この方が一番行かれたのが、大曲市(現在の大仙市です)だったようです。足繁く歩いて、撮った写真集の中に、1953年に発行された「秋田」という題のものがあります。

 その表紙の写真が、この冒頭のものです。秋田や東北地方では、若い年頃の娘さんを「おばこ」と呼ぶのですが、その「おばこ」は、撮影時に19歳であった洋子さんだったそうです。新潟と並んで、この秋田が、「美人県」として有名になったきっかけの写真だったのでしょうか。

 父が旧制の中学校を卒業して進学したのは、「秋田鉱業専門学校(現在の秋田大学になります)で、1920年代の中頃のことでしたから、この写真集に魅せられたわけではありません。時代が違います。秋田県人を何人か知っていますが、みなさん色白なことは確かで、やはり「秋田美人」、「秋田美男」なのです。

 JR「大曲駅」の駅舎のロビー吹抜けに吊り下げられた大きなパネル写真も、この写真でした。60年以上も前に撮影された写真が、今日も、掲げられているということは、この秋田や大曲を代表する一葉であるからなのでしょう。

 写真といえばカメラに、ライカがあります。ドイツ製で、このカメラで撮った写真は、特別なのでしょう。好評価を得た有名な写真の多くが、このカメラで撮られているそうです。やはり<カメラの中のカメラ>、<カメラのキング>です。光学デジタルにはない、<古き良き物>の一つなのでしょうか。

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 一機欲しいと思っていた時期がありましたが、一桁違っているように見えるほどの値段を見て、手が引っ込んでしまいました。撮影技術などない私には、もし手に入れても、<宝の持ち腐れ>になりそうです。時々眺める光景で、撮って残しておきたいものがあるのですが、今では、スマホが使えるのは素晴らしいことですね。でも、よく不携帯で外出してしまい、撮影の好機を逃しているのです。

 あの “aurora (オーロラ)” を撮ってみたいのです。スカンジナビアかカナダかアラスカに行ったらいいのでしょうか。病気をなさった方を、しばらくお世話したことがありました。その方が元気な頃に、アラスカに釣りに行かれたことがあったそうで、懐かしく話してくれました。それほど学歴がなかったのに、猛烈な仕事人で、大企業の要職にあった様です。『元気になられたら、一緒にオーロラを観にいきましょうね!』と言ったまま、この方は亡くなられました。

 きっと素晴らしい光景を目にして、もう一度観たかったのでしょう。カナダはバンクーバーまで、わたしは行ったことがありましたが、もっと北を目指した旅を、もう一度してみたいものです。北欧もいいですね。不自由なコロナ禍だから、余計、そんな思いにされるのでしょうか。

 

(「ライカ」で木村伊兵衛が撮影した昭和の顔や子どもたちです)

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喜び

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 『あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。  あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。 (ルカ1547節)」

 この二日間、無くしてしまったものを、捜しました。なくてはならないものだったからです。何かと言いますと、一合半炊きの炊飯器の蒸気が出る部分の部品でした。子育て中は、一升炊きだったのが、子どもたちらが巣立った後、二人世帯になって、さらにコロナ禍で、お客さんも来なくなり、来られてもそそくさとお帰りになられるので、何年も使って摩耗してきてもいましたので、2人用を新規に買ったわけです。

 大手の会社の製品ではないのですが、《使い勝手》がよいのです。もう1年ほど使い続けています。それが昨夕、棚の上に置いてある炊飯器の釜や中蓋と一緒に、その部品を外して、洗い場に持っていく時にでしょうか、どこかに紛れ込んだのか、落ちたのかで、1時間も探してみましたが、どこにも見当たりませんでした。

 諦めた私は、週明けに、製造会社の問い合わせ係に電話をして、取り寄せようと思ったのです。昨夕は、冷や飯で雑炊を作りましたので、炊飯器は使いませんでした。アルミホイルで同じ様なものを作って代用で炊飯を、今夕はしたのです。いつもと同じ様に美味しく炊けたのです。食後の食器洗いを済ませて、片付けようとして、もう一度捜したのです。あったのです。調味料の空の袋の中に紛れ込んでいたのです。諦めなかったのがよかったのでしょう。

 こんなに嬉しく喜こんだのは、久しぶりのことでした。と同時に、彷徨い歩いて、夜な夜な悪所を飲み歩いていた頃、酔いが覚めたのか、ぞくっと背中が寒くなって、惨めな足取りで歩いていた頃を思い出したのです。誰かに見付けられることもなく、人生の闇の中に沈み込もうとした頃、首根っこを掴まれて、泥沼から引き出された様に感じた日がありました。自分が喜ぶよりは、私の真の所有者が、捜索者である神が喜ばれたのでしょう。

 

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 もちろん、見付けられた自分にも、じわじわと、その喜びが感じられていったのを思い出したのです。家内は、『見付けられなかったら(救われていなかったら)、あなたは女に殺されていた違いないわ!』と言うのです。家内に、女性で苦労をかけたことなどなかったのに、何てことを言うのでしょうか。まあ、〈さもありなん〉で、無抵抗の私なのです。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 焼却炉行きの空袋の様ではなく、永遠の滅びの中から、捜し出され、見つけられ、引き出された日から、もう半世紀以上の歳月が経ちました。なくなった部品が見つかって私が喜こんだのですから、創造の父が見つけてくださった私を、とても喜こんでくださったのに違いないのが解るのです。ですから、あのまま見つけられなかったら、袋に紛れ込んで、生ゴミの中に入れられた部品の様に、焼却炉で燃え尽きるところでした。ところが、《神の憐れみ》によって、すんでのところで見つけられた私なのです。そう諦めなかったのが、神さまでした。さあ、《使い勝手》はどうだったのでしょうか。

(“キリスト教クリップアート“”イラストAC”のイラストです)

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和歌山県

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 渋谷や新宿にあった、大型書店の「紀伊國屋書店(きのくにや)」に、時々行ったことがありました。現在の和歌山県は、律令制下に、「紀伊國」と呼ばれていました。創業者の田辺茂一は、紀州徳川藩の足軽の出で、本屋の開業時に、自分の故郷の「紀伊国」を店の名称にしています。

 今年も、「有田みかん」が気に入って、近くのスーパーマーケットで、有田産のみかんを、何度も買って食べました。愛媛も熊本も佐賀も、後続のみかん産地ですが、かつては、紀州が主なる産地で、木箱に入って売られていたのを、父が買ってくれて、よく食べましたから、懐かしかったのかも知れません。

 今では、みかんの産地が、あちこちにありますが、江戸時代には、江戸の市民は、紀州の「温州みかん」を食べていたそうです。それで有名なのが、紀伊國屋文左衛門でした。嵐の中を船で、豊作だった蜜柑を買い集めて、江戸に運んで、巨万の富を手に入れて、豪遊したので、勇名を轟かせたのだそうです。実話なのか、お芝居の人物なのか、どちらにしろ有名な、紀州人でした。

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 この和歌山県の県庁所在地は和歌山市、95万の人口、県木はウバメガシ、県花は梅、県鳥はメジロで、漁業が盛んな県で、県魚はマグロなのだそうです。そう言えば、わが家の食卓には、時々、紀州名産の「南高梅」が添えられます。独特な香りがして、美味しいのです。「つぶれ梅」の特売が、生協のチラシに入る時に、注文しています。

 「木の国」と言われるほど、山林や山地の多い地で、県の7割を山々で占めています。県の北部は、阪神工業地帯に位置していて、工業が盛んですが、県全体としては、人口減少がみられるそうで、どうしても林業が中心の産業構造となってきた県であります。

 手毬(てまり)唄の「まりと殿様」に、『紀州の殿様お国入り』と歌われています。

てんてん手鞠(てんまり) てん手鞠(てまり)
てんてん手鞠の 手がそれて
どこから どこまでとんでった
垣根をこえて 屋根こえて
おもての通りへ とんでった とんでった

おもての行列 なんじゃいな
紀州(きしゅう)の殿さま お国入り
金紋(きんもん) 先箱(さきばこ) 供(とも)ぞろい
お駕籠(かご)のそばには ひげやっこ
毛槍(けやり)をふりふり やっこらさのやっこらさ

てんてん手鞠は てんころり
はずんでおかごの 屋根のうえ
「もしもし 紀州のお殿さま
あなたのお国の みかん山
わたしに 見させて下さいな 下さいな」

お駕籠はゆきます 東海道(とうかいどう)
東海道は 松並木(まつなみき)
とまり とまりで 日がくれて
一年たっても 戻(もど)りゃせぬ
三年たっても 戻りゃせぬ 戻りゃせぬ

てんてん手鞠は 殿さまに
だかれて はるばる 旅をして
紀州はよい国 日のひかり
山のみかんに なったげな
赤いみかんに なったげな なったげな

 みかんをおいしく実らせる、太陽の光が溢れている様子が、作詞者の西条八十によって読み込まれています。この県は紀州藩のお殿様だけではなく、多くの歌人によって、和歌によって詠まれていて、県名でわかるように、県北にある、「和歌の浦」で有名なのです。風光明媚で、とくに「砂洲(さす)」で有名です。

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若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺を指して 鶴鳴き渡る

田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける

 この二首の和歌は、山部赤人の作で、あまりにも有名で「万葉集」に収められています。京畿地方の伝統ある県ですから、ぜひ旅行で訪ねてみたいものです。

 実は、最初の職場で、「道徳教育全国研修会」が、弘法大師(空海)が開山した寺と高野山高校、さらには宿坊を会場にして働かないかと行われた時、事務方の仕事で出張したことがありました。有名な哲学者のご子息が、研修会の専門委員で、ご一緒させていただきました。この方が、「胡麻豆腐」が好物で、三泊ほどいた会期中に、何度も、『食べに行きましょう!』と誘ってくださって、舌鼓を打たせてもらったのが懐かしいのです。

 この方の勤めていた大学が、東京の目白にあって、そこで教師として働かないかと誘われたことがありました。伝道者になって数年経ったばかりの頃でした。でも丁重にお断りしたのです。私を気に入ってくださったのでしょうか、その後も色々とお誘い下ったのです。人との出会いに恵まれた半生を思い返しています。もう半世紀以上も前に出会った方との和歌山への訪問でした。

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古のことと今

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 『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。(詩篇839節)』

 紀元前1000年に生まれて、七十数年の生涯を生きたイスラエルの王・ダビデの詠んだ「詩篇」が聖書の中にあります。その詩の中に詠まれてある、紀元前の人の信仰、思考、洞察、自戒、信頼、価値観、死生観、人間理解、希望などに、驚きを禁じ得ないのです。まるで、現代人の思いと寸分違わないからです。

 日本の皇祖と言われる神武天皇は、紀元前660年に、天皇に即位されたと、「日本書紀」の記述にあります。明治になって、そう公表されました。「日本書紀」は、紀元720年に完成された、日本の歴史書です。日本の歴史は、文字が、渡来人によってもたらされるまでは、口承で、人から人に語り伝えられたもので、文字の記録はないのです。

 漢字は、儒教の教本の「四書五経(論語などです)」や仏教の経典によって、およそ6世紀ころにもたらされているようです。その文字を用いて、日本書紀や古事記が記されてきています。ところが、ダビデの詩は、口承によったのではなく、3000年の前に、文字によって記され、残され、伝えられ、「聖書」の中に収められているのです。今日の感覚と同じで、人の心の動きの微細が記されています。

 ダビデ以前の「ノア」の時代のことが、聖書の「創世記」に中にあります。これはモーセによって記されたとされています。聖書(この場合「旧約聖書」に限りますが)は、紀元前4世紀頃に編集されたとされています。その書き初めに、Γγένεσις(ゲネシス、起源、誕生、創生、原因、開始、始まり、根源のことです)」と言われる書を、日本語では「創世記」と訳したものがあるのです。

 弥生時代人や縄文時代人の生活振りを、貝塚や古墳窓の戸籍から出土した物で理解し、朝鮮半島や中国の文献で知ることができるのですが、古代の彼らに、深い思考とか理想とか夢がなかったとは言えません。人を憎んだり愛したり、裁いたり赦したり、子や孫たちに託す夢だってあった日があったのに、それを知る術がありません。高松塚の壁画が発見され、注目されて50年も経つのですが、推定の段階でしかありません。

 壁の絵だけでなく土器の壊れた破片や折れた矢の鏃のように、何も語らない無言のままに、後世に人々の憶測や、推論で歴史の考察がなされてきたことになります。私たちの租となる人々に、物の生活だけではなく、深刻な思考の生活があったに違いないのは残念なことです。

 ダビデの詩には、「主」と訳された Yahweh (ヤーヴェ)"、”Jehovah (エホバ)" と呼びかけている神がいます。その主なる神なしには、この人の生涯を語ることができません。親兄弟には過小評価され、取るに足りない者でしたが、神は、このダビデを用いて、敵であったペリシテを敗走させる武勲をあげさせ、やがて、イスラエルの王に任職されるのです。人としてダビデの家系から、神の御子イエスが、人の子となられて誕生し、十字架で、人の救いのみ業を成就したのです。

 ダビデが信じ、仕えたように、異邦人であり、異教徒である私でさえも、この十字架の贖罪を信じるなら、救いに預かれるのです。人の世界は、アダムの罪以来、紛争と憎悪の繰り返しで、21世紀になった今に至っても、それらは止みません。何か第三次世界大戦の足音が聞こえている昨今です。聖書は、この人の営みや歴史に終わりがあると記しています。

 その時を迎える準備はお済みでしょうか。聖書には、『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。』と言う問いに、『それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカ211011節)』と答えたとあります。

 ここに、2000年の前になされた、わたしたちへの警告があります。そのための準備する時間的な猶予がありそうです。どうも、そんな時期が迫っているに違いありません。事が起こると、次から次へと急激に起こりそうです。

(古墳の壁画です)

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誰でも

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 『薬の名前の連続みたいですね!』と言うのが、先日、近所の方のお宅にお招きいただいた時に、手土産に持参した「新約聖書」を読み始められての感想でした。イエス・キリストの系図が、巻頭に記されているので、そう思われるのも当然だと思ったのです。

 聖書は、「神の霊感」を受けた筆者が書いています。時代も、書き手の背景も違うのですが、私の最初の読後の印象も、『編集が上手くないよ!』でした。でも、聖書記者に霊感を与えた神を知るなら、もう少しせいかくな言い方をしますと、《神との出会い》があった時から、よく判るようになったのです。薬の名の羅列の様でも、そこに登場する人たちの生き方などに意味があるのを知るからです。

 例えば、「ラハブ」という婦人は、エリコという街で「遊女」をしていた人なのです。イエスさまは、人としての祖先の中に、そんなことを職業としていた婦人がいたことを、平気の平左で書いてしまうのです。『そんなで大丈夫?』と思わせてしまい、それを知った人は、もう聖書を読み続けるのも、イエスを知るのもやめて、拒否反応を示してしまうかも知れません。

 そんな異教の神々の子、生まれや背景の女性でも、神の救いに預かり、救い主が人と生まれた家系の中に入ることができたのです。もちろん、その仕事を良いと言ってるのではなく、どんな背景があっても、神は気にしません。《今》がどうなのかなのです。どんな〈過去〉も〈罪〉も、もし悔い改めるなら赦されるからです。ラハブは、神のご用のために、エリコの街に遣わされた斥候たちを匿ったことによって、神の民の間で生活することを許され、《救い主の家系》の一人とされたのです。

 つまり、それは《神の選び》のことを言ってるのです。義人ぶっていても、実は悪戯小僧で、コソ泥で、いじめっ子で、暴力を働き、悪所に出入りし、人を騙して、いつかは捕まるのではと、おどおどして生きていた者を、救いに導き、神の子とし、神に仕える伝道者の端くれに加えていただいたのは、《神の恩寵》以外に考えられません。

 殺人者でも詐欺師でも、奴隷商人でも大泥棒でも、売春婦でも stripper でも、女囚でも女女衒でも、だれでも救われるのです。公平なのです。ですから誰でも、もし罪を悔いて、神の前に出るなら、《神の子》とされるのです。これが聖書が語る、「救い」なのです。

 『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント517節)』

 だれでも、どんな人でも、どんな過去があっても、《機会》があるのだと、聖書は言うのです。私が一番気になる聖書の登場人物は、「エフタ」と言う人です。聖書は、この人について、次の様に記しています。

 『さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。 ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」 そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた。(士師記1113節)』

 遊女の過去を持つ母の子、それゆえ家族から疎まれ、家督相続の権を奪われ、追い出されたエフタが、ごろつき集団の頭目に転落します。ところがエフタは、イスラエルの「救出者」とされる逆転人生の人なのです。それは通常、あり得ないことでした。でも、人生をやり直すことができたのがエフタでした。彼の様な変化や逆転を経験した人を、多く私は見てきました。『えっ、人ってこんなに変わってしまうの!』と言う人たちです。一番の驚きは、この自分なのかも知れません。

(  “ キリスト教クリップアート ” のイラストです)

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ウナギ

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 『僕はウナギだ。』、『あたしは親子丼です!』、『君はラーメン?』、この文章は、主語と述語で成り立っているように見えますが、どうもそうではなさそうです。

 この会話は、三人で、食堂に入って、お昼ご飯を食べようとしていたのでしょう。壁に吊るされた、品書きを見ていると、お茶を持ってきてくれた店員さんに、『何にいたしましょう?』と聞かれて、三人が食べたいものを注文しているのです。

 中国に行ったばかりの頃、なんと言うのか判らないので、向こうの卓の客が食べてるのを指差して、覚えたての中国語で、『那个!(あれ)』と言ったのです。それで意思の疎通があって、ちゃんと思った通りの料理が運ばれてきたのです。代名詞や方向詞でも、指差しでも通じるわけです。でも人は、言葉で意思を伝え、相手を理解するので、どう喋るかは大切です。

 日本語で、[主語と述語]や[助詞の使い方]を教えた時に、このことを取り上げた授業をしたことがあったのです。日本語は、曖昧な言語で、主語を省略して話す場合が多いからです。私は、説教時に、言い足さなければならないことが、よくありました。

 同じ状況や環境にいると、相手に『理解してもらえる!』と言う思いがあって、主語を省略しても、外国人の学習者を混乱させてしまうだけで、誰なのか、何なのかははっきりしないといけないのです。

 『僕はウナギだ!』 と言ったら、店員さんは、『あなたってウナギなんですか!』などとは決して思わないわけです。でも、文章化したら、主語の私が「ウナギ」になってしまいます。

 言葉は、やはり見える様に話さなければならないのですが、明治期以降の文豪たちの書き言葉は、実に重みがあり、流暢で、美しいのです。日本語の中に、カタカナ語が入ってきて、その割合が多くなってきて、英語と思しきカタカナ語の原語の spell が解らないので、英語の辞書を引くことができません。

 だいぶ前でしたが、台湾の教会でお話しさせていただいたことがありましたが、通訳をしてくださる牧師さんに、『お願いがあるのですが、カタカナ語は使わないでくださいますか!』と言われました。英語はご存知でも、カタカナ英語は理解できないからです。

 母国語が曖昧になってしまうと、外国語学習にも影響がある様です。長男の子どもたちが、[英検]に挑戦して、頑張っているのです。良い英語学習者になるためには、母語の理解が基礎にあるのが理想的だと言われています。そのためには、夏目漱石や田山花袋や泉鏡花などの作品を読んで、母国語の力を付けて欲しいものです。

(“イラストAC”のイラストです)

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悲しくて

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 上の兄は、空襲で、甲府の街の空が真っ赤だったのを覚えていると語ったことがあります。山奥の山の狭間から、焼夷弾の空爆で、父の事務所のあった街中心部が燃えているという現実を見て知っているのです。わたしには、その経験はありません。ただ軍務に携わっていた父の石英の採掘現場は、爆撃地点ではなかったのが、不思議でした。

 あの戦争が行われていた頃の広島県呉市の様子が、アニメーション映画として上映されました。日本国海軍の軍港のあった呉を舞台に描かれた、漫画の「この世界の片隅で」が、2016年11月に、映画化され、大きな反響を呼び起こしました。

 『主人公が、穏やかな性格のすずで、広島市に生まれ育った少女です。兄妹との三人兄妹で、しっかり者の兄からはいつも鈍いと怒られてばかりだったが、実はすずは手先が器用で絵を描くのが得意だった。えんぴつが握れないほど小さくなるまで絵を夢中になって描いているような少女時代を過ごした。

ある日、北条周作という青年が父親と共に呉から広島市のすずの実家に訪れる。幼少時代に、すずと一度会ったことがあり、その際に一目惚れをし、結婚を申し込みに来たのだった。すずはあまり気乗りはしていなかったものの、周りの勧めもあり、呉へと嫁ぐことを決める。嫁ぎ先の北条家では優しい父、病弱な母、周作、すずの4人で過ごしていたが、途中から周作の姉である径子が娘の晴美を連れて戻ってくる。

 嫁ぎ先の義実家とうまくいかず戻ってきたという。径子はすずとまさに真逆な性格で、テキパキと行動し、鈍臭いすずには絶えず小言を言っていた。しかし、娘の晴美とすずはとても仲が良く、ふたりでよく遊んでいた。

 戦時中のため、決して裕福な生活とは言えなかったが、晴美は軍艦が好きだったので、すずが軍艦の絵を描いてあげるなど、ささやかに楽しい生活を送っていた。次第に空襲警報も増え、呉も空襲に怯えながら防空壕に逃げ込む回数も増えていった。そんな中、義父が空襲のせいで怪我をしてしまう。すずと晴美は義父のお見舞いに病院に行くが、その帰り道にまた空襲警報が鳴る。近場の防空壕に飛び込み、すずは晴美を勇敢に守っていたが、防空壕から出た直後、埋もれていた不発弾に晴美が被弾してしまい死んでしまう。すずも、晴美と繋いでいた右手を失ってしまう。

 大切にしていた晴美と右手を同時に失った喪失感、晴美の母親である径子から責められる日々で、すずは死にたくなってしまう。空襲警報が鳴っても外にいたところ、周作がすずを見つけ、命がけで守ってくれる。広島の実家に帰ろう、そう思っていた頃、広島市に原爆が投下される。原爆投下から数日が経ち、広島市の様子を見るために広島市に周作と共に帰省するが、そこには変わり果てた故郷があった。そのとき、右手を失ったすずを見て、少女が母親だと思い込み近寄ってきた。すずと周作は戦争孤児になってしまった少女を引き連れて呉へと帰り、新たな生活を始めようとするのだった。以上、映画「この世界の片隅に」の簡単ネタバレあらすじと結末でした(映画ウオッチ)。』

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 戦争は、必ず悲劇を生み出します。家庭、親子、恋人同士の愛が引き裂かれます。建物や文化財が破壊されるのです。何よりも深い傷を、心の中に残すのはやりきれません。戦争を知らない世代が、後期高齢者入りになった今、戦争体験者の親に育てられて、親の兄弟たちは戦死したりして、間接的に戦争の被害を知ってるのでしょう。

 戦後、新宿や上野や電車の中に、孤児や傷痍軍人を見かけました。うつろな目をした人たちと、ギラギラとした目で生き抜いている強さを持って生きようとしていた人が混在していた時代でした。

 まさかこんなことになるかとは思わなかった戦争が起きてしまいました。砲撃されたウクライナの街の焦土の様子、戦死者を葬る遺族の悲しい様子、泣き悲しんでいる遺族の顔と涙、こんな悲劇がまた起こって、悲しくて悲しくって仕方がありません。呉の街だけではありません、主要都市が爆撃された日本でしたが復興しました。あんなに瓦礫の山になったキエフなどは、復興できるのでしょうか、何よりも、人々の生活はどうなるのでしょうか。日本にも難民がおいでです。ウクライナの人の傷ついた心は癒えるのでしょうか。

 ただ、主の恵みを祈るだけです。アウシュビッツを生き抜いた方が、ロシア軍の攻撃で戦死されたニュースを昨日聞きましました。これから台湾は大丈夫なのでしょうか。インドも、沖縄も、北海道も、何か大丈夫ではなくなってきていそうです。死にゆく準備は出来ていますか。《永遠のいのち》のあるのをご存知ですか。それでも、今は、《恵の時》なのです。

(漫画の場面、空爆後のウクライナの街の様子です)

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決心

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 時代小説の「半七捕物帳」の著作で有名な岡本綺堂に、「停車場の趣味」という短文があります。

 『・・・これは趣味というべきものかどうか判らないが、とにかく私は汽車に停車場というものに就いてすこぶる興味を持っている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それがすこぶるおもしろい。尊い寺は、門から知れると云うが、ある意味に於いて停車場は土地そのものの象徴と云ってよい。

 そんな理屈はしばらく措いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どっち付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊におもしろいのは、一列車に、二、三人か、五、六人ぐらいしか乗り降りしないような、寂しい地方の小さい停車場である。

 そういう停車場はすぐに人家のある町や村につづいていないところもある。降りても人力車(くるま)一台も無いようなところもある。停車場の建物も勿論小さい。しかもそこには案外に大きい桜や桃の木などがあって、春は一面に咲き乱れている(中略)。

 停車場はその土地の象徴であると、わたしは前に云ったが、直接にはその駅長や駅員らの趣味もうかがわれる。ある駅ではその設備や風致にすこぶる注意を払っているが、・・・やはり周囲の野趣をそのまま取り入れて、あくまでも自然に作った方がおもしろい。長い汽車旅行に疲れた乗客の眼もそれに因っていかに慰められるか判らない(中略)。

 汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車のひびきが遠く消えて、見送りの人々などがしずかに帰ってゆく。その寂しいような心持ちもまたわるくない・・・停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞こえるのである。』

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 足で歩き、籠や馬や舟に乗って旅をしたのが、「汽笛いっせい」黒煙を吐く蒸気機関車に乗るようになったことが、劇的に旅を変えたのです。昭和25、6年頃に、八王子から中央線で新宿や東京、そこから東海道線、京都で福知山に出て山陰線へと急行「いずも」で、母の故郷の出雲市駅への汽車旅をしたことがありました。蒸気機関車が牽引していた時代です。当時の「急行いずも」の時刻は、東京 22:00発、大阪9:06 福知山11:49 鳥取14:55 出雲今市(現・出雲市)17:5で、何と19時間の旅だったのです(さらに八王子からの乗車時間も、東京駅での待ち合わせ時間もそれに加えられる長い旅でした!)。

 蒸気機関車の石炭の煤の匂いが、いまだに nostalgic に記憶に残っているのが不思議です。駅を「停車場」と言う岡本綺堂の文章に、その頃を思い出させられて、懐かしさが込み上げてきます。それ以前に、甲府から新宿の、父に連れられて、同じ蒸気機関車で出たこともあります。トンネルの中も客車も、煙だらけだったのです。「鉄道唱歌」で、その八王子を出て、出雲行の旅でたどった停車場をあげてみます。

[甲府]

今は旅てふ名のみにて 都を出でゝ六時間座りて 越ゆる山と川 甲府にこそは着きにけれ

[八王子]

立川越えて多摩川や 日野に豊田や八王子 織物業で名も高く中央線の起点なり

[新宿]

千駄ヶ谷代々木新宿 中山道は前に行き 南は品川東海道 北は赤羽奥羽線

[東京(新橋)]

汽笛一声新橋 はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる月を旅路の友として

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[京都]

ここは桓武のみかどより 千有余年の都の地 今も雲井の空たかく あふぐ清凉紫宸殿

[福知山]

道を返して福知山 工兵隊も見てゆかん 昔語りの大江山 北へ数里の道の程

[出雲]

雲たち出る出雲路の 斐の川上は其昔 大蛇討たれし素戔嗚の 神の武勇に隠れ無し

今市町を後にして 西に向かえば杵築町 大国主を奉りたる  出雲大社に詣でなん 

 飛行機で旅ができる時代だからこそ、草鞋ばきで旅した往時を思い返してみますと、古人は徒歩の旅を苦とすることなく、二本の足でこの日本列島を縦横無尽に歩いたのです。母に連れられた旅は、難儀だったのですが、養母に諭されたのでしょうか、一大決心をして、父の元に帰って、何も無かったかのようにして、子育てに努めた母がいて、私たちの今があるのです。

 停車場に灯っていた裸電球が、風に揺すられて、右左、西東に動いていたことでしょう。その母親としての決心の土台になったものを、母が持っていて、自分の感情によってではなく、自分の課せられた責務に献身したのでしょう。幼い日に宿った、《神信仰》が、母の一生の《つっかい棒》だったことは確かです。

(急行「いずも」、駅の待合室、D51の機関車、山陰線の蒸気機関車です)

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