沈みゆく太陽

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 吉岡治の作詞、原信夫の作曲の「真赤な太陽」を、美空ひばりが歌っていました。

まっかに燃えた 太陽だから
真夏の海は 恋の季節なの
渚をはしる ふたりの髪に
せつなくなびく 甘い潮風よ
はげしい愛に 灼けた素肌は
燃えるこころ 恋のときめき
忘れず残すため
まっかに燃えた 太陽だから
真夏の海は 恋の季節なの

いつかは沈む 太陽だから
涙にぬれた 恋の季節なの
渚に消えた ふたりの恋に
砕ける波が 白く目にしみる
くちづけかわし 永遠を誓った
愛の孤独 海にながして
はげしく身をまかす
いつかは沈む 太陽だから
涙にぬれた 恋の季節なの
恋の季節なの 恋の季節なの
恋の季節なの 恋の季節なの

 この歌を歌った、美空ひばりは昭和を代表する女性歌手でした。川田晴久と一緒に歌っていた、まだ子どもの頃の彼女の歌声を、薄覚えています。歌は、1967年に発表され、なんと140万枚の大ヒットを飛ばしたものでした。ジャッキー吉川とブルーコメッツが、バックで歌っていました。自分は、青春真っ只中で、すぐ上の兄に買ってもらった背広に、白いYシャツにネクタイ、黒い靴を履いた社会人一年生でした。その年の夏前に、流行ったのです。

 この2月1日に、89歳で亡くなる直前の石原慎太郎氏が、この歌詞の「いつかは沈む太陽」のくだりを、余命わずかな時期、昨年の秋頃に引用して、「死への道程」と言う遺稿を記していました。大学在学中の1955年に、「太陽の季節」を発表し、57年には芥川賞を受賞し、一躍文壇の寵児となり、「太陽族」の社会現象が起こりました。少なからず自分も、夏休みに坊主頭に、「慎太郎刈」の真似事をし、中学校の校則違反をしたことがありました。足を引きずって裕次郎の様な歩きの真似もしたのです。

 湘南海岸の砂浜を駆け回った男たちも、鬼籍に入ったわけで、輝いていた「太陽」が沈むように、生者必衰で、「太陽族」の弟の裕次郎も、その歌の作詞者も、作曲者も、歌手も、一緒に歌った若者たちの多くも亡くなっています。聖書には、次の様にあります。

 『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・。(ヘブル927節)』

 誰もが、「死」を迎えるのです。父も、母も、恩師たちも逝きました。やがて順番に、私も、決して避けることができずに、死に逝くのです。実に厳しいのは、「死後に裁き」のあることを言います。聖書には、次の様にもあります。

 『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 1コリント1554節)』

 これは、パウロが、コリントの教会に書き送った手紙の中の一節です。パウロは何を言っているのでしょうか。語ることなく、封印しておきたい「死」の問題を取り上げているのです。この聖書箇所の前に、次の様に書き記されてあります。

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 『聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告jげましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(1コリント154553節)』

 人類の始祖の〈最初の人アダム〉と、《最後のアダム》、《第二の人》である、イエスさまが比較されて記されています。アダムは死にました。ところが、イエスさまは十字架で死なれたのですが、復活されて、「死」を討ち滅ぼされたのです。《死に勝利した救い主》だと、パウロは記します。代々の基督者は、これを信じたのです。私の母も、父も、二人の兄も、一人の弟も、息子も娘も孫たちも、そう信じたのです。受くべき「裁き」を、代わって受けてくださったことを信じることができました。未知、未経験の「死」を、恐れないで、怯えないでいいのです。イエスさまは、

 『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは「死」を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。 2テモテ110節)』

と、パウロが弟子のテモテに、「死」は滅ぼされたと書き送ったのです。

 『「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(1コリント人へ155558節)』

 軍隊を、ウクライナの街々に送って、殺戮行為を繰り返している命令者のプーチンも、レーニンやスターリンがそうだった様に、彼もまた必ず死ぬのです。誰一人、これを免れることはできません。だから生きている今、神と和解し、私の身代わりに十字架に死んでくださったイエスを、誰でも信じるなら、救われ、永遠の命を頂けるのです。ここに「救い」があります。聖書は、そう約束するのです。

(1950年代の若者の「太陽族」、“キリスト教クリップアート”からです)

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