出会い

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 作詞が寺山修司  、作曲が加藤ヒロシで、「戦争は知らない」は、1968年に歌われていたでしょうか。

野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
ぼうしにいっぱいつみゆけば
なぜか涙が涙が出るの

戦争の日々を何も知らない
だけど私に父はいない
父を想えばあゝ荒野に
赤い夕陽が夕陽が沈む

いくさで死んだ哀しい父さん
私はあなたの娘です
二十年後のこの故郷で
明日お嫁にお嫁に行くの

見ていて下さいはるかな父さん
いわし雲とぶ空の下
いくさ知らずに二十才になって
嫁いで母に母になるの

野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
ぼうしにいっぱいつみゆけば
なぜか涙が涙が出るの

ララララ ララララ・・・

 作詞者の寺山修司のお父さんは、太平洋戦争の折、南方のセレベス島で、戦病死をしています。多感な少年、青年、成年の時代を、異端児という評価を得て通り過ぎて行った非凡であったからでしょうか、常軌を逸したり、途方もない形で、演劇を編集し、実演し、公開した演劇人でした。

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 戦争や、アルコールが原因で、父親を亡くしたことと、彼の生き方とは無関係ではなさそうです。私は、彼の挑戦や挑発には応答しませんでした。寺山と同じ年に、ジョージア州で生まれたアメリカ人の宣教師に出会い、この方と8年間、共に過ごしたのです。聖書をどう読むか、どう解釈するか、どう説教するか、時の動きをどう読み取るか、妻をどう愛するか、子をどう育てるかなどを教わったのです。

 そう言った出会いと感化に導かれたことを、今振り返って見て、ただ感謝を覚えるだけです。多くの人が戦争に飲み込まれ、生き方を変えねばならなかったことでしょう。夢だって捨てた人が大勢いたことでしょう。ただ食べるだけだった時代、それでも知識や言葉や活字や思想に飢え乾きを覚えていた人たちが、多かったのです。

 知り合いの宣教師が、なぜ日本に来たかを聞いたことがあります。『戦場で、残忍な行為をした日本兵に必要なのは福音、十字架だと思いました。それを語るために、教会の主に遣わされて日本に来ました!』とです。

 私たちの群れに、しばらく集っていたフィリピン人の方たちがいました。上の息子がアルバイト先で出会って、彼らを助け、交わりをし、教会にお連れしたのです。その中に、私と同じ年齢の方がいて、お父さんを日本兵に殺されたと言っておいででした。彼は基督者でした。帰国した彼から、フィリピンの礼服が送られてきました。感謝の気持ちを込めてでした。憎しみは憎しみを生み出しますが、赦しは赦しを生みます。赦しと共に感謝が生まれること、それらがウクライナとロシアとの間にも起こることを願いつつ。

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