喜び

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 『あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。  あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。 (ルカ1547節)」

 この二日間、無くしてしまったものを、捜しました。なくてはならないものだったからです。何かと言いますと、一合半炊きの炊飯器の蒸気が出る部分の部品でした。子育て中は、一升炊きだったのが、子どもたちらが巣立った後、二人世帯になって、さらにコロナ禍で、お客さんも来なくなり、来られてもそそくさとお帰りになられるので、何年も使って摩耗してきてもいましたので、2人用を新規に買ったわけです。

 大手の会社の製品ではないのですが、《使い勝手》がよいのです。もう1年ほど使い続けています。それが昨夕、棚の上に置いてある炊飯器の釜や中蓋と一緒に、その部品を外して、洗い場に持っていく時にでしょうか、どこかに紛れ込んだのか、落ちたのかで、1時間も探してみましたが、どこにも見当たりませんでした。

 諦めた私は、週明けに、製造会社の問い合わせ係に電話をして、取り寄せようと思ったのです。昨夕は、冷や飯で雑炊を作りましたので、炊飯器は使いませんでした。アルミホイルで同じ様なものを作って代用で炊飯を、今夕はしたのです。いつもと同じ様に美味しく炊けたのです。食後の食器洗いを済ませて、片付けようとして、もう一度捜したのです。あったのです。調味料の空の袋の中に紛れ込んでいたのです。諦めなかったのがよかったのでしょう。

 こんなに嬉しく喜こんだのは、久しぶりのことでした。と同時に、彷徨い歩いて、夜な夜な悪所を飲み歩いていた頃、酔いが覚めたのか、ぞくっと背中が寒くなって、惨めな足取りで歩いていた頃を思い出したのです。誰かに見付けられることもなく、人生の闇の中に沈み込もうとした頃、首根っこを掴まれて、泥沼から引き出された様に感じた日がありました。自分が喜ぶよりは、私の真の所有者が、捜索者である神が喜ばれたのでしょう。

 

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 もちろん、見付けられた自分にも、じわじわと、その喜びが感じられていったのを思い出したのです。家内は、『見付けられなかったら(救われていなかったら)、あなたは女に殺されていた違いないわ!』と言うのです。家内に、女性で苦労をかけたことなどなかったのに、何てことを言うのでしょうか。まあ、〈さもありなん〉で、無抵抗の私なのです。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 焼却炉行きの空袋の様ではなく、永遠の滅びの中から、捜し出され、見つけられ、引き出された日から、もう半世紀以上の歳月が経ちました。なくなった部品が見つかって私が喜こんだのですから、創造の父が見つけてくださった私を、とても喜こんでくださったのに違いないのが解るのです。ですから、あのまま見つけられなかったら、袋に紛れ込んで、生ゴミの中に入れられた部品の様に、焼却炉で燃え尽きるところでした。ところが、《神の憐れみ》によって、すんでのところで見つけられた私なのです。そう諦めなかったのが、神さまでした。さあ、《使い勝手》はどうだったのでしょうか。

(“キリスト教クリップアート“”イラストAC”のイラストです)

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