青空と小麦の産地

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 一面に広がる小麦の穀倉地帯に、このウクライナの国が位置しています。聖書に、次のような言葉が記されてあります。

 『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」創世記1213節)』

 流浪の民と呼ばれ、異邦の人たちには、「向こうの川から渡って来た者」という意味の、「ヘブル人」と呼ばれた民族です。でも、この民の族長の「アブラハム」への約束は、二十一世紀にも生きていて、私は、次の聖書のことばに従って生きています。

 『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」(詩篇1226~8節)』

 今日まで、「エルサレムの平和」を祈ってきました。踏みにじられた街でしたが、この都は、「大王の都」、王の王の都であるからです。この王となるために、イエスさまは、人の子の姿を取られて、この世にお生まれくださったのです。アブラハム、ダビデの末裔としてです。そして、異邦人である日本人の私のためにも、十字架に、私の罪の身代わり死んでくださったことを、25歳で信じさせていただき、半世紀が経ちました。

 やがて、このイエスさまは、エルサレムにおいでくださって、「黄金の門」から入城されます。今は、天の御父の右に座しておられますが、やがてそこを立たれて、エルサレムの王座に着座なさるのです。全天全地の統治者、審判者としてです。それが私の世代で成就して欲しいと願っていますが、そうでなくても、来られます。

 このキリストを生み出した、ヘブル人、イスラエル人、ユダヤ人と呼ばれる民のためにも祈っています。今、ロシアの侵略による攻撃を受けているウクライナ。そのの大統領、ウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)氏は、アブラハムの家系なのです。

 受けた祝福への感謝のために、踏みにじられたウクライナの大地に、小麦を収穫できる季節が来るのを信じて、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」にご加護を祈ります。

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ウクライナ

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『まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。 (詩篇979節)』

 「ウクライナ」について、「東京都立図書館」は、次のように紹介しています。

 『スラブ語で、辺境・国境地方を意味する「ウクライナ」に由来。4世紀頃から東スラブ人が定住していた地に、9世紀頃にバルト海地方からノルマン人(ルーシ人)が南下してキエフ・ルーシ公国を建国したのがはじまり。かつては、ソ連の一連邦国。国の面積は、約60.4万平方キロメートル(日本の約1.6倍)。人口は、4,241万人(クリミアを除く)(2017 ウクライナ国家統計局)。首都はキエフで、言語はウクライナ語。日本とは国交があり、交流が行われてきています。現大統領はウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)でユダヤ系です。

 それでも、この日、世界中でなされる「日曜礼拝」が、この国でも守られ、その礼拝の中で、主の名が高らかにあがめられますように。戦火の中で、万軍の主が、この国を守られ、祝福されますように。立てられた首長の上に、祝福の油を注いでください。アドナイイルエ、エホバなる神に信頼し、正しく選択し、決断することができますように。平和が回復し、歴史を支配なさる神が、平和を実現してくださいますように祈ります。

(ウクライナの国家は、「ひまわり」です)

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二の舞

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 昭和初期の日本のしたことを、国際社会は、こんな調査をしています。

 『1932年(昭和72月、満州事変の処理に関して国際連盟派遣した調査委員会。満州事変は中国によって国際連盟提訴された。中国が連盟規約第15条による総会開催を請求したのに対し、これを不利とみた日本は、現地への調査団派遣を提案し、311210日の理事会で派遣が決定された。調査団は、インド・ベンガル州総督などを務めたイギリス人のリットン卿(きょう)V. A. G. R. Lytton団長に、フランスの軍人クローデル将軍H. E. Claudel、アメリカの軍人マッコイ将軍F. R. MacCoyイタリアの外交官アルドロバンジ伯L. M. Aldrovandi、ドイツの植民政策研究家シュネーH. Schnee5人であった。調査団は229日東京着、日本政府、軍部、実業界などの代表者と接触ののち、中国へ向かい、313日上海(シャンハイ)着、のち1か月にわたり上海、南京(ナンキン)、漢口(かんこう/ハンコウ)、北京(ペキン)などを視察し、419日満州へ向かった。6月初旬まで満州で調査し、720日から北京で報告書の作成を開始した。報告書は101日日中両国へ通達され、2公表された。日本は、調査団が東京に着いた翌日の31日に、「満州国」建国を宣言させ、報告書執筆中に「満州国」を承認し、既成事実で調査団に対抗した。しかし、報告書は、柳条湖(りゅうじょうこ)事件を正当な軍事行動とは認めず、「満州国」建国も中国人の自発的な運動ではないとし、満州を中国の主権の範囲としたうえで、地方的自治政府を設け、非武装地帯となすよう提案した。他方、満州における日本の権益も承認しているが、日本政府は報告書に不満の意を表した。332月、日本軍による熱河(ねっか)作戦などが連盟加盟国を刺激し、リットン報告書の採択と「満州国」の不承認を内容とする十九人委員会の報告書が総会で採択されたため、327日、日本は国際連盟を脱退した。[君島和彦]「外務省編『日本外交年表竝主要文書 下」復刻版(1965・原書房)』

 この「リットン調査」の後、日本から全権大使として国際連盟に出席した松岡洋右は、連盟脱退を告げて、議場を去りました。そして、日華事変や太平洋戦争へ繋がっていくのです。昨日のロシアのウクライナ侵攻のニュースを聞いて、このことを思い出して、調べ直してみたのです。

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 ナチスドイツも、ヨーロッパ諸国に軍を進め、いわゆる「第三帝国」建国に野望を剥き出しにした訳です。独裁者は、人気取りにために、逆に人気を失う策を講じて自滅していく運命にあります。私たちに責務は、過去に学んで、同じ轍を踏んで、二の舞をするような、愚かな道を再びたどらないことなのでしょう。

 悪しきものに inspire (霊感されて)しまうのでしょうか、常軌を逸した決定を下して、自国民に塗炭の苦しみを味合わせてしまうのが独裁者なのでしょう。いつでしたか、独裁者の顔写真を掲げた合成写真を見たことがありました。その多くに、 が書き込まれて、自滅、報復、処刑されていました。哀れな結末が見えてると、警告したいものです。

(「昨日のキエフ(AFP)」、「リットン調査団」による検証、チャップリンの「独裁者」です)

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どうなる

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 「理想の国」の建国を目指して、コロンブスの発見したアメリカ大陸に、メイフラワー号が、イギリスのプリマスから船出をしたのが、1620年9月16日でした。この船は、マサチューセッツ州プリマスに、11月21日に着きました。

 この船に乗った人たちが、その理想を書面にしています。いわゆる41人によって署名された、「メイフラワー誓約」と呼ばれるものです。自由を求めてやって来た人々の理想の上に、「アメリカ合衆国」が建国されたのが、1776年7月4日でした。

 イギリスを出港した人で、無事に目的地に着いたのは53人で、航海中病没した人が半分近くいたのです。そんな困難を経て、国が作られて行ったわけです。そんな理想を掲げた国から、戦後、この国から送られた ” LALA物資 ” の脱脂粉乳を、私たちの世代は飲ませて頂きました。

 そればかりではなく、この国からやって来た教育者と医者が建てた学校で学び、この国からやって来た宣教師から学びながら、その事業を受け継ぎました。また子どもたちは、この国で教育を受けました。家内の家族は、終戦後、近くにいたアメリカ人の宣教師家族と親しく交流をし、家内の姉たちは、この国の方と結婚し家庭を持ちました。義母は、やって来た宣教師のみなさんに、《ございます!》の日本語を教えたのです。

 悲しい戦争が、日米の両国間に過去にありましたが、<喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)>で、恨みっこなしで好いのでしょう。中学生の時、国分寺名画座で、アメリカ映画を食い入るように観ました。片方の脳では、国粋的な考えを持とうとしているのに、ずいぶん矛盾した時期を通過していました。

 とくにジェームス・ディーンの出演した映画の三部作(理由なき反抗、エデンの東、ジャイアンツ)は、何度も何度も観直しました。敗戦の貧しい日本と繁栄のアメリカとの落差の大きさに、青年期前期の私は、これも複雑な思いでいたのです。

 これまで出会ったアメリカ人は、みんな親切で愛に溢れていました。過去の経緯など溶けて無くなってしまう様にしてでした。世界中で、難民が出たり、孤児がいたりすると、受け入れ養い育てています。私の次女の義理のお母さんは、未婚の母の産んだ子や、事情のある幼児を、何人も何人も育ててきた人でした。そう言った優しさを、この国の人たちは、一般的に持っているのです。

 この国の大統領選挙は、日本の場合と違うのです。そのためのテレビ討論会が行われていますが、なんども観続けてきましたが、何か後味が悪いのです。互いに、相手をけなし、醜聞を取り上げ、過去の失敗を糾弾するようになってしまい、驚くのです。

 「建国の夢や理想」、その夢を引き継いできたアメリカ国民の代表として、そんなことで好いのかとしきりに思いました。繁栄の富を、海外の必要のために捧げ、医療や教育や善行のために、驚くほどの数の人材を派遣し、多くの宣教師を派遣した国なのに、残念でたまりません。自分が何をするかの政策論争を忘れているのでしょうか。

 日本の武将は、戦場(いくさば)で、自分が誰であるかを名乗り合って、戦ったほどに、潔かったのです。その「潔さ」を微塵も、あの討論で聞く事ができませんでした。あのアメリカはどうしたのでしょうか。あの建国の父たちの夢や理想はどこへ行ったのでしょうか。

 これからのアメリカは、世界のリーダーとして、「良心の実行者」としての責務を果たす事ができるのでしょうか。経済や軍事のリーダーであるよりも、国としての品格のリーダーであって欲しいものだと、願うばかりです。

 ウクライナへの侵攻で兵を、国境付近に集結していたロシアが、ついに国境を越えて軍を進め始めてしまいました。アメリカは、” NOを貫いています。日本が、満州を侵略した時も、ロシアが朝鮮半島の三十六度線を越えようとした時も、北ヴェトナムが、ソ連の援助で、南ベトナムを攻めた時も、イラクがクウエートを侵攻した時も、同じように、アメリカは、「世界の警察」として介入してきました。

 独裁者を許してしまう背景には、秘密警察の恐ろしさがあるのでしょうか。それともウオッカの飲み過ぎで、正しく思考したり、判断したり、決定できなくなってしまったのでしょうか。いつも前線に立つのは、若者たちです。『人類は、過去に学ばない!』、そのままでいるのでしょうか。

 風見鶏(かざみどり)のように、傍観者ではなく、日本も、「義」に立って、正義が行われるようにして欲しいものです。対面や経済よりも大切なものがあるからです。ゴグやマゴグに関わる、旧約聖書に預言が、成就していくのでしょうか。ウクライナの遥か向こうに、1948年5月14日に建国された、「イスラエル共和国」があります。教えてくださった宣教師は、やがてアメリカが国力や影響力を落としていく時、「万軍の主」である神が、神に選ばれた民を、直接助けるようになる、と言っておられました。そんな時代が来ようとしているかも知れません。戦々恐々、どうなるのでしょうか。

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若さ

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 『 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。(1テモテ412節)』

 ナポレオンは、30代でフランスの指導者になりました。明治維新の原動力になったのも、主に30代の人たちでした。令和の日本の政治の世界では、いまだに六十代は「新人」、「青二才」だと言われます。もちろんそう言うのは、現状を憂えず、維持を願う年長の老人たちからですが。

 アメリカが、アイゼンハウワーの後任を選ぶときに、さまざまな裏のやり取りがありましたが、結果的には、アメリカの政治史上初の43歳のケネディーを、第35代大統領に選ばれました。当時私は、華の高校生でした。他国の大統領でしたが、一番驚いたのは、この方の若さでした。

 同級生が、新大統領の叫んだNew Frontier “ に感銘して、新宿駅前の喫茶店で熱く、その spirit を語ってくれたのです。繁栄のアメリカも例外なく抱えていた、平和と戦争、無知と偏見、貧困と豊かさといった問題に、ケネディーは就任に際して語ったわけです。この新大統領は、西部開拓者の子孫かと思ったら、アイルランドからの移民の商人、実業家の子だったのです。

 今の日本の総理大臣が、「新資本主義」を、よく語っているのですが、資本主義に、新旧があるのを知って、ちょっと戸惑っているのですが。何を意図して、そう言ってるのか、もう少し聞き続け、様子を見て行きたいなと思っております。

 室町幕府の足利尊氏は、33歳で征夷大将軍となっていますし、織田信長は、39歳で天下人となっています。近代の我が国初代の総理大臣の伊藤博文でさえも、43歳で就任しています。

 若く指導者となった方たちの生き方や、したことに賛成できない面も、多々あるのですが、経験だけが人の力ではありませんし、パウロがテモテに、《若さ》を軽く見られないようにと勧めたことには、神の意図がみられます。彼がキリストの教会の牧者とされた時に、パウロが勧めた言葉です。

 歴史を見ますと、若い人が用いられ、一国の危機を救った事例は多くあります。先代の非を改めて、善政を行った逸材がいたことを立証しています。若者が傲慢にならずに、先人への敬いを忘れずに、その知恵に聞いた例も多くあります。聖書に、

 『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。(レビ1932節)』

とあります。私の若い日々に、年配者がおいででした。よく人生訓を聞かせられ、どう生き、何を選択するかを教えてくれました。そうしてくださった方々のお顔や言葉が思い出されてまいります。今あるのは、そう言った方々からの金言、知恵があったからでしょうか。

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情熱、夢、正義への愛、祖国愛、人間愛、気高さなどが豊かな時期こそ、社会的な責任を負い、果たすために相応しいに違いありません。融通が聞き過ぎて、誰か特定な人や集団の益にのみ思いを向けてしまうことのないのは、年齢的に老いる前の方が柔軟でいいのでしょう。もちろん、老成した者には知恵がありますが、彼らだけが知恵者なのではなく、若くても豊かな知恵を備えた人はおいでだからです。

老若が折り合いながら、補助し合いながらことがなされるのが理想なのかも知れません。高校の頃に一夏、湯河原の海で過ごしたことがありました。その時一緒だった上の兄の同級生で、運動部も同じだった方が、先頃亡くなられたと聞きました。バリバリの sportsman でした。有名な企業に就職し、役員をされた頃、兄の勧めで教会に来始め、信仰者となった方です。そんな年齢になったのだと思わされています。人生短しですね。

(キリスト教クリップアートから「ソロモンの知恵」、吉浜海岸です)

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福井県

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 東尋坊、水上勉、永平寺、同業で友人の故郷ですが、一度も訪ねたことのないのが福井県です。雪深く、真冬の漆黒の日本海は、荒波で、律令の下では、「五畿七道」、「五畿」は大和・山城・摂津・河内・和泉、「七道」は東山道、北陸道、東海道、南海道、西海道、山陰道、山陽道で、福井県は、北陸道の若狭国、越前国と呼ばれた地でした。

 友人のお父さんが、ご自分で育てたお米や山に入って刈り取った松茸を送ってくださり、越前の味を楽しんだこともあります。三国(みくに)や敦賀(つるが)の港町は、「北前船」の寄港地としての役割を担っていたそうです。

 この「北前船」は、北國廻船のことで、江戸期に始まり、物流の先駆的な形で、日本海の港に寄港した商い船でした。物ばかりではなく「文化」も同時に運ばれたようです。荒波を越えていく命懸けの事業は、鉄道網が日本列島に広がっていく明治三十年代まで行われていたのです。

 人口76万で、県都は福井市です。県花は水仙、県木は松、県鳥はつぐみで、県魚は越前蟹、農業を中心とした県でしょうか。この越前蟹も一度も食べたことがありません。県花の水仙ですが、この花は、「雪中花」と呼ばれるのだそうです。作詞が吉岡治、作曲が市川昭介で、この花の歌があります。

風に風に 群れとぶ鴎
波が牙むく 越前岬
ここが故郷 がんばりますと
花はりりしい 雪中花
小さな母の 面影揺れてます

紅を紅を さすこともなく
趣味は楽しく 働くことと
母の言葉が いまでも殘る
雪をかぶった 雪中花

しあわせ薄い 背中を知ってます
いつかいつか 薄日がさして
波もうららな 越前岬
見ててください 出直しますと
花はけなげな 雪中花
優しい母の 笑顔が咲いてます

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 水仙は、地中海を原産地とする花で、「絹の道」で 球根が中国に運ばれ、その球根が海に流れ出て、海流に運ばれて、日本列島の海岸に打ち上げられ、そこで花開いたのだと聞きました。この浪漫が好きなのか、花が好きなのか、巴波川の岸には、もう三週間ほど前に、花を開かせていたのを、じっと眺めていました。

 この花は、敦賀港にも漂着したのでしょう、同じ波に乗って、この港に運ばれた一団の人の群れが、戦時中にありました。リトアニアのマナウスの日本領事館で、領事館代理だった杉原千畝が、「命の visa 」を発給し、中国大陸を上海まで来て、ドイツの支配に服さない国に亡命しようとした多くのユダヤ人が、この敦賀港に上陸しています。

 『雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を横たえる。だれがこれを起こすことができよう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。(民数記249節)』

 敦賀市民は、着の身着のままだったユダヤ人のみなさんに、宿や衣料や食料を提供し、銭湯に連れて行き体を洗わせ、元気付けられた彼らは神戸港から、アメリカや南米などの国に逃れて行ったのです。まさに、昭和の「exodus エクソダス/脱出」でした。『この街は、《 Heaven 》のように思えた!」と、ユダヤ難民のみなさんが証言しています。1940〜41年のことでした。まるで水仙が水に運ばれて来た物語に似て、神の特愛の民が、敦賀に来て、安堵の地に逃れて行ったわけです。神の選ばれた民を祝福した敦賀市民は、万物に創造主からの祝福を被ったのでしょう。

 戦争に敗れて、中国大陸から祖国に引き揚げてくる一団が、引き揚げ船が着いたのが同じく京下の「舞鶴」でした。子どもの頃、引き上げて来られた方の消息を問合せ、知らせる放送が、NHKでなされていました。子ども心に、悲しさを覚えたのです。父は、旧満州や朝鮮半島にいましたから、私たちは残留孤児になった可能性だってあったのかも知れません。祖国に帰って来た方たちの喜びは、どれほどだったことでしょうか。

 私たちは、生まれた故郷に帰るのではなく、「魂の故郷」、天に備えら得た故郷に、帰ることができるのです。

 『 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル1116節)』

 それで私のペンネームは、「寄留者」なのです。以前、在華時には、「大陸寄留者」と名乗ったのですが、本物の「ふるさと」に帰るために、一時的に留まっている人として、自分を捉えているのです。生まれたのは《漢字の故郷》、これから帰るのは《ひらがなのふるさと》と区別しております。思い返しますと、いろいろな街や国の街や野を歩いて来たなあ、とおもうのです。
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 さて、ここ福井県には、「県立恐竜博物館」があります。恐竜の化石が発見されたのが、豪雪地である「勝山市」なのです。巨大な動物が生息していて、草食だったと言うのに驚かされます。いつか行って見ることができるでしょうか。
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愛でる

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 『主は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。(創世記11112節)』

 毎年、春になると台所の洗い場( sink )の下の扉の中の冷暗所に、水を含ませた tissue paper を置き、その上に朝顔の種を蒔くのです。芽吹かせるためにです。芽が出てくるのを見て、土に植え替え、そして鉢に植え替え、庭やベランダに置きます。これをもう何年も何年も家内が続けてきました。華南の街のアパートのベランダでも、日本から持って行った種を植えたのです。

 まさに「婦唱夫随(ふしょうふずい)」で、green を愛(め)

でる思いが与えられ、ベランダ活用術を心得た私も、調理や食器洗いだけでは、種を蒔いたり、苗を植えたりしています。綺麗に咲くのです。今年も、もうすでに、寒風の中、ベランダでは何種類もの花が鉢の中で咲き、室内では、胡蝶蘭の鉢が四つもあって、もう10輪も咲き始めています。

 これを眺めていて、あんなに綺麗に咲く花に、時々水遣りをするのですが、土と水で、真っ白やビロード色の蘭が咲いてくるのが不思議でならないのです。花を咲かせている「力」は、どこからくるのでしょうか。あの色彩は、何が「作用」しているのでしょうか。わずかな水を吸い上げていくのは、どんな「ポンプ」が、花の根や茎に内臓されているのでしょうか。

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 今住んでいるアパートは、5階建てで、台所や風呂場や洗面所の水は、pomp up したものを水圧を調整しながら、けっこう複雑な設備が上層部にあって、給水機能が維持されています。年に何回か、半日ほどかけて、清掃や整備が行われています。人が設備して、維持管理されていて、その水で先ほども洗面を終わったわけです。

 ところが、窓辺の胡蝶蘭は、ポンプもないし、点検もしないのに、今、10輪ほど咲き始めていて、芽は各枝に10個ほどあって、順次咲かせているのです。花芽でしょうか、花でしょうか、その配列も一定していて、茎の方から先端に向けて、順次咲いて、長く楽しませてくれるのです。 

 根の中に、何の細工もないのに、あんな細い茎を伝わって水分、栄養分を送り続けていくのは、何なのでしょうか。生物学者は、「根圧(または浸透圧とも言うようです)」と言うそうです。何が、その圧を加えているのでしょうか。植物の本能なのでしょうか。その本能は、どういう風に備わったのでしょうか。人は知らないのです。科学では説明できないことです。

 野の草でさえ、創造の御手によってできなかったものはありません。意図され、計画されて造られた一本の木や咲く花を、養い育てる、創造の神がおられ、このお方がなさった以外に考えられません。数ミリの胡蝶蘭の根や茎の中に秩序よく水を送り、養い育てておられるお方が、私をも生かしているのです。また新しい朝が来ようとしています。

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與一様

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 『祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。』、高校の国語で、「平家物語」を学んだ冒頭の部分です。この書の「扇の的」の段は、次のように記しています。

 『ころは二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折節北風激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。
舟は、揺り上げ揺り据ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。
(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれもいづれも晴れならずといふ事ぞなき。

与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光の権現(ごんげん)、宇都宮、那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。
これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度(ふたたび)(おもて)を向かふべからず。
今一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢外させ給ふな。」
と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。

与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
小兵(こひょう)といふ条、十二束三伏(じゅうにそくみつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要際(かなめぎわ)一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。
かぶらは海に入りければ、扇は空へぞ上がりける。
しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一揉み二揉み揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたを叩いて感じたり。
陸には源氏、えびらを叩いてどよめきけり。

あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男の、黒革をどしの鎧着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持ったるが、扇立てたりける所に立つて舞ひ締めたり。
伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄つて、
「御定(ごじょう)であるぞ、つかまつれ。」
と言ひければ、今度は中差取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、舟底へ逆さまに射倒す。
平家の方には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。
「あ、射たり。」
と言ふ人もあり、また、
「情けなし。」
と言ふ者もあり。』

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 これは、源義経の命を受けた「那須與一」が、平氏の軍との一戦、「屋島の戦い」で、海に浮かぶ舟の扇を、一矢を放って射抜くという話です。日本史の中の逸話として有名な話ですが、与一は、下野国(現在の栃木県)の那須岳の近くの出身でした。

 その武勲によって、兄たちは平家に与(くみ)したので、家督相続は、那須佐久山の父・那須資隆の十一番目の子の「與一宗隆」が継いでいます(佐久山城の那須地域では、領民は誇らしく、「お殿様」として接したのでしょう。

 大田原市では、この那須与一を「郷土の誉」としています。那須岳から吹き下す冬季の雪は冷たそうですが、郷土の名を挙げた人材だったわけです。ここ栃木では、誇る人や事物や名産や歴史的事件などに、「様(さま)」を付けるのです。例えば、宇都宮は「雷都(らいと)」と呼ばれるほど、雷で有名なのですから、これに、様をつけて「雷様」と、怖いものなのに愛称をもって呼んでいます。

 それで「與一様」と、親愛の情を込めて呼んでいるのです。「与一温泉」と名のついた温泉もあったり、マンホールの蓋にも描かれ、西瓜にも、その名をつけてています。『あるかな?』と思って探してましたら、「与一栗饅頭」がありました。

 すみよい街として、栃木県下では高く評価されているのです。この那須の出身で、若き友人のお話によると、夏場は涼しいので、都会からの移住者が多いのだそうですが、寒さの厳しい冬がやってきますと、みなさん尻込みをして、去っていく人もあるのだそうです。甲州八ヶ岳の麓の別荘地は、boom の頃は乱立するほどですが、やがてそれが去って、廃屋が点在していたのと似ています。土地の人は、寒さに耐えて生き続けてきた強さがあるのでしょう。

(美味しい「与一西瓜」です)

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春来

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 東側の窓を開けましたら、太陽の光が差し込んできたと同時に、四階の窓下は予備校の屋上で、そこに雪がうっすら積もり、その上を、陽を浴びて雪がキラキラと輝きながら舞っていたのです。奥山深山に行かなくても、旧宿場町のここでも、そんな光景を目にできて、喜んだ朝です。

 こんな朝、つい唇からついて出てくる歌があります。高野辰之の作詞、岡野貞一の作曲の「春が来た」です。

春が来た 春が来た どこに来た。
山に来た 里に来た、
野にも来た。

花がさく 花がさく どこにさく。
山にさく 里にさく、
野にもさく。

鳥がなく 鳥がなく どこでなく。
山で鳴く 里で鳴く、
野でも鳴く。

まさに窓に、屋上に、春の日差しがやって来たようで、やはり、ウキウキとした気持ちがあふれてきます。「聖書」に、季節を作り、四季を備えられた神のみ業が記されてあります。

『わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。(エゼキエル34章26節)』

太陽と地球に距離、地軸の傾き、地球の自転などなしには、春もやってきません人を楽しませる創造の神が、そうされた以外に、考えられない天然の理によるのです。どの村にも、どの辻にも、日本の神々がいて、それが分かると、習慣的に歩を止めて、合掌しては祈っていた男が、創造の神、摂理の神、義なる神と出会って改心し、基督者となりました。彼は生涯、その信仰を続けて終えたのです。それが内村鑑三でした。彼が、「寒中の木の芽」と言う詩を残しています。

一、春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰(なぐさめ)あり

二、花散りて後に
  葉落ちて後に
  果失せて後に
  芽は枝に顕(あら)わる

三、嗚呼(ああ)憂に沈むものよ
  嗚呼不幸をかこつものよ
  嗚呼冀望(きぼう)の失せしものよ
  春陽の期近し

四、春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰あり

自ら、かつては、「憂に沈むもの」、「不幸をかこつもの」、「冀望(きぼう)の失せしもの」であったのに、喜ぶ者、幸福なる者、希望ある者とされた喜びが、内村に与えられたのです。基督者であるが故の不都合な事態があっても、自らの弱さがあっても、友や弟子に裏切られ、娘を亡くしても、青年期に出会った義なる神、救い主キリストと離れることはありませんでした。

内村は去り、時は移り、季節は巡り、令和の御代になっても、天然自然は不変に、忠実に運行されています。

(2月17日朝、家内が朝日の中に雪の舞う様子を撮りました)

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本地の歴史

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 ここ栃木市は、かつて足利藩だったことを知って驚きました。足利は、日本史で学んだ足利氏の支配した地で、室町幕府(1337年)を起こす前、清和源氏の流れを汲み、下野源氏の一族でした。鎌倉幕府の時期には、御家人の要職にあったのです。下野国の足利庄に在を置き、「坂東(ばんどう/関東地方の古称です)の雄」でした。鎌倉幕府を滅した後、あの足利尊氏が征夷大将軍に着き、京都に幕府を開いたのです。

 数年前に、足利学校を見学しました。平安時代に初期に創設され、「坂東の学校」として前途有為の若者を集めたようです。宣教師のザビエルも、その国元のイスパニアに書き送った書状で紹介しています。日本中から学ぶ者がやって来て、論語などから孔子の思想を学んだのです。

 イギリスのオックスフォード大学は、1096年に、最初の講義が行われたそうですから、それよりもはるか昔に、足利学校は開校されていたことになります。日本最古の高等教育機関だったことになります。足利市民は、ここを「足利様」と親しみを込めて呼んできたのだそうです。庶民からの支持があって、応援が飛んでいたと言うことでしょうか。

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 源頼朝も足利尊氏は、元々は、源義家(平安期)を祖とした一族で、源氏の天下は長く続いてきているわけです。ですから、「驕る平家」は、日本に全土に、落武者となって散っていき、農業に従事して、二度と天下を狙うことはなかったわけです。県北の湯西川には、落人部落だったと言われ、温泉で注目されています。室町幕府も、15代まで続くのですが、織田信長によって義昭が追われ、その時点で滅びています(1573年)。

 農民も商人も職人も、覇権競争の外にあって、畑地は踏み荒らされたり、家は焼かれても、再び地を耕して種を巻き、稲を植え、家を建て直しては住み続けて、営々と生活を続けてきているわけです。散歩道に巴波川の流れを眺めるのですが、舟運に従事した人々は、荷を舟に載せたり下ろしたり、舟の櫓を漕ぎ、舟を曳きながら生きていたのを思ってみますと、農も商も工も、日常は平凡な労働の繰り返しだったことになります。

 政権交代が繰り返され、足利藩だった栃木にも、皆川氏が、市の北の地に城を設け、その後、栃木に城を新たに建てるのですが、幕府の改易で、皆川氏は退いてしまいます。そして足利藩の支配下に置かれて、明治維新を迎えるのです。散歩で歩く日光例幣使街道も、道沿いの商人も農民も、支配者が変わろうと、日常を営々として続けてきたわけです。いつの世も、民百姓は健気に、逞しく生き続けてきたのです。市内に「城内町」という地名があるのは、その名残なのでしょう。

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皆川城址や湯西川温泉に行ったりしたら、源平盛衰の余韻や、室町時代の空気を感じることができるでしょうか。古い日本が残されて、今があるわけです。

(皆川城址、足利学校、湯西川です)

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