滋賀県

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作詞が小口太郎、作曲が吉田千秋作曲(イギリス民謡「ひつじ草」を下敷)で、第三高等学校の歌として有名な「琵琶湖周航の歌」があります。

われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
滋賀の都よ いざさらば

松は緑に 砂白き
雄松が里の 乙女子は
赤い椿の 森蔭に
はかない恋に 泣くとかや

波の間に間に 漂えば
赤い泊灯(とまりび) (なつか)しみ
行方定めぬ 浪枕
今日は今津か 長浜か

瑠璃の花園 珊瑚の宮
古い伝えの 竹生島
仏の御手に 抱かれて
眠れ乙女子 安らけく

矢の根は深く 埋もれて
夏草しげき 堀のあと
古城にひとり (たたず)めば
比良(ひら) 伊吹(いぶき)も夢のごと

西国十番 長命寺
汚れの現世(うつしよ) 遠く去りて
黄金(こがね)の波に いざこがん
語れ我が友 熱き心(むね)

 近江八幡市は、日本最大の湖の琵琶湖の岸にあって、風光明媚な街なのです。第三高等学校とは、今の京都大学の前身で、学府としては西の雄であって、多くの有名無名の器を送り出した学校です。その学校の漕艇部(ボート)は、この琵琶湖を練習の場としていたのです。今津の浜の宿で、小口太郎が詩を書き上げ、三高の寮歌になったのです。小口も作曲家も、二十代前半で亡くなっています。

 この滋賀県は、律令制下では、「近江国」と呼ばれ、京の都の近く栄えた地でした。そこは、「近江商人」と言って、正直さを売りにする訪問販売などに従事した商いをした人たちの出身地なのです。この人たちが掲げたのが、「三方よし」でした。「売り手よし」、「買い手よし」、「世間よし」で、正直な商いをしてきて有名です。私の家から北の方に、「かましん」と言うスーパーマーケットがあって、その近江商人の釜屋新兵衛が、明治期に創業しているそうで、その「正直」を売っています。

 メンソレータム(今は、商品名がメンタームと変わりました)で名の知れていた「近江兄弟社」が、滋賀県近江八幡市にあります。そこに、近江兄弟中学・高校があって、「滋賀県私学教育研修会」が開催され、事務局の責任をおおせつかっていたので、出張したことがありました。そこでお会いしたのが、実に温厚な校長先生でした。ご一緒に食事をした時に、若いだけの私に、丁寧で誠実なお相手ををしてくださったのが印象的だったのです。

 その高潔な人格に触れたことで、すっかり滋賀県の印象が良くなってしまって、今日に至っております。この近江兄弟社は、アメリカ人のヴォーリスと言われる方が始められたキリスト教の背景の建築会社やメンソレータムなどの販売会社でした。基督者で建築家のヴォーリスは、来日した際、英語教師として商業学校の教壇に立ち、後に、その信仰基盤でキリスト主義の近江兄弟社(現ヴォーリス学園)の中学高校を設立しました。

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明治期、文明開化以降、欧米の技術は、怒涛のように日本社会に入り込んできましたが、教育や思想やキリスト教などの精神的な面でも影響を受けるのです。近江兄弟社の創始者のヴォーリスもその一人でした。そう言った多くの宣教師の働きで、人々が救われ、札幌、弘前、横浜、近江、島根、熊本などに、キリスト教会が建て上げられていきました。

 また、父が働いていた会社の工場が、滋賀県下にあったでしょうか。東海道線に「米原(まいばら)」と言う駅があります。その近くだったと覚えています。父は東京本社勤務でした。その米原は、北陸本線への乗り換え駅( terminal )で、人や物が行き交うだけではなく、言葉や文化が行き交う場所なのだそうです。太平洋側の街に出掛けた方が、北陸の街に帰って行くために乗り換える駅です。人生の<交差点>とも言えるでしょうか。

 ある方が、金沢に帰ろうとして、北陸本線に乗り込む前に、駅弁を買ったのです。その様子を見ていた、ある人が、『北陸の人だね。』と声をかけたのだそうです。雪国の人は、雪が少ない米原の駅でも、背筋を丸め、狭い歩幅で歩くといった特徴を見破られたからでした。住む環境によって、人の習慣や癖までも作り上げて行くことがあるです。自分の所作の中にも、特徴的な何かがあるのかも知れません。(とんだ勘違いで、この項を、岐阜県の記事に載せました。米原は滋賀県でした。ごめんなさい。)

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県人口は141万人、県都は大津市、県花はシャクナゲ、県木はモミジ、県鳥はカイツブリです。歴史的にみますと、第38代の天智天皇の時には、近江大津宮には、都が置かれたこともありました。京都,大阪をひかえている地理的な関係で、大都市への供給の農産物とくに、米やお茶の生産にあたってきた歴史がありますから、農業県とも言えそうです。琵琶湖からは鮎やシジミがとれています。近来は、工業生産圏として、大きな地歩をしめている県でもあります。

近江国といえば、彦根、彦根といえば、井伊直弼(なおすけ)の出身藩で、徳川末期の大老として、43歳で幕政にあったのです。江戸城の桜田門外で、暗殺されています。部屋住の経験などがありましたが、そんな苦労をしていた上、聡明だったので、有能な指導者でした。私たちに住む街の隣町は、佐野市で、そこは彦根藩の飛び地であったために、市内の寺に直弼が祀られています。安政の大獄で刑死した吉田松陰は、この井伊直弼を高く評価しています。

県都の大津には、天智天皇の御代に、都が置かれましたから、近江国人にとっては、「滋賀の都」であり、信州岡谷出身の作詞者の小口太郎にとっても、漕艇の琵琶湖は、かつての栄光を湖面に写して見え、誇らしく思えたことでしょう。

華南の街で出会った日本で牧会をしておいでの方と、今もお交わりがあります。彼は滋賀県下で奉仕されておいでなのです。家内と私は、貧しいみなさんに古着を、大連に運んだことがありました。この牧師の若い時期に、大連の学校に留学されていて、日本人基督者の集会のおいでになっていたのだそうで、私たちが訪ねたことを覚えていてくださったのです。そんな私の滋賀です。

(ヴォーリスの設計した川口教会(大阪市西区)、石楠花です)

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