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東側の窓を開けましたら、太陽の光が差し込んできたと同時に、四階の窓下は予備校の屋上で、そこに雪がうっすら積もり、その上を、陽を浴びて雪がキラキラと輝きながら舞っていたのです。奥山深山に行かなくても、旧宿場町のここでも、そんな光景を目にできて、喜んだ朝です。
こんな朝、つい唇からついて出てくる歌があります。高野辰之の作詞、岡野貞一の作曲の「春が来た」です。
春が来た 春が来た どこに来た。
山に来た 里に来た、
野にも来た。
花がさく 花がさく どこにさく。
山にさく 里にさく、
野にもさく。
鳥がなく 鳥がなく どこでなく。
山で鳴く 里で鳴く、
野でも鳴く。
まさに窓に、屋上に、春の日差しがやって来たようで、やはり、ウキウキとした気持ちがあふれてきます。「聖書」に、季節を作り、四季を備えられた神のみ業が記されてあります。
『わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。(エゼキエル34章26節)』
太陽と地球に距離、地軸の傾き、地球の自転などなしには、春もやってきません人を楽しませる創造の神が、そうされた以外に、考えられない天然の理によるのです。どの村にも、どの辻にも、日本の神々がいて、それが分かると、習慣的に歩を止めて、合掌しては祈っていた男が、創造の神、摂理の神、義なる神と出会って改心し、基督者となりました。彼は生涯、その信仰を続けて終えたのです。それが内村鑑三でした。彼が、「寒中の木の芽」と言う詩を残しています。
一、春の枝に花あり
夏の枝に葉あり
秋の枝に果あり
冬の枝に慰(なぐさめ)あり
二、花散りて後に
葉落ちて後に
果失せて後に
芽は枝に顕(あら)わる
三、嗚呼(ああ)憂に沈むものよ
嗚呼不幸をかこつものよ
嗚呼冀望(きぼう)の失せしものよ
春陽の期近し
四、春の枝に花あり
夏の枝に葉あり
秋の枝に果あり
冬の枝に慰あり
自ら、かつては、「憂に沈むもの」、「不幸をかこつもの」、「冀望(きぼう)の失せしもの」であったのに、喜ぶ者、幸福なる者、希望ある者とされた喜びが、内村に与えられたのです。基督者であるが故の不都合な事態があっても、自らの弱さがあっても、友や弟子に裏切られ、娘を亡くしても、青年期に出会った義なる神、救い主キリストと離れることはありませんでした。
内村は去り、時は移り、季節は巡り、令和の御代になっても、天然自然は不変に、忠実に運行されています。
(2月17日朝、家内が朝日の中に雪の舞う様子を撮りました)
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