まさか

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 栃木駅前から、目抜き通りだったと聞き、この3年ほど、散歩や買い物で通っている「みつわ通り」や「銀座通り」は、まるで休眠状態の商店や、住まなくなった民家が、ずっとそのままでした。一昨年の巴波川の氾濫があってから、一軒一軒と取り壊されて、さらに歯抜けのような状態になってきています。この辺りの住民は、栄えていた時代を知っていらっしゃるので、その寂しさは一入だろうと思ってしまいます。

 ところが、最近は、その更地で新築される工事が進んでいて、その槌音がよく聞こえるようなってきています。街というのは、何代も何代も住み続けるのかと思うと、どうもそうではなく、処分されて売られ、新しい人たちが住み始めて、新しい街になっていくのでしょうか。『この辺は、昔・・・』と言い出す人たちも、だんだんいらっしゃらなくなっているのです。

 ラジオ体操仲間で、昭和初期にでも建てられたのか、時代を感じさせる一軒の理容店の主人がおいでです。石灰石の産地の鍋山辺りの出身のお父様の代に、この街で開業されたのだとお聞きしました。多くの街の人の頭を刈り続けて、今日まできておいでなのです。先日、その前を通ったのですが、店から、なにやら色々な箱が運び出されて、店の脇に置かれていたのを見て、いよいよ廃業されるのかと思ったのです。ところが、一昨日、散歩で店の前を通りましたら、あの理容店の赤青白の広告塔( Barber’s pole /赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表しています)が回っていて、営業しておいででした。

 この地で知り合った方が、『亡くなった夫も義父も叔父も、みんな髪を刈ってもらった床屋さんなんです!』と言っておいででした。職業柄、街の人の動きなどの情報を持っていて、この街で生き続けてきた顔なのでしょうか。近くに明治期から続く旅館があってたそうで、そのお嬢さんが有名な女優さんの実家だったそうですが、今は、コンビニに変わってしまっているようです。

 そう言えば、ラジオ番組の担当者( personality )が、長い留守中に聞かなかったこともあって、いつの間にか代替わりしていて、ある方は、もう亡くなったと聞いて、時の移り変わり、街の移り変わり、人の移り変わりは、流れゆく川の流れのように、〈元の水、人、街にあらず〉なのだと、つくづく思ってしまいます。

 もう何年もすると、『ああ、この辺りに、ちょっと変わった老夫婦が住んでいましたね!』とか言われそうです。いつでしたか、子どもの頃に、キャッチボールや追いかけっこをし、父ともキャッチボールをしていた道を通ったことがあっのですが、全くの様変わりで、記憶と現実の差の大きさに、寂しくも感じたことがありました。

 生まれた家だって、50年前には、まだ建っていたのですが、その後に行った時には、傾いてしまっていました。最後に通った時には、跡形もなく片付けられていたのです。そんな同じ光景が、ここの街中に見られ、住む人も変わっていくのでしょう。『いたらしいですね。お嬢さんが近くに住んでおいでだそうです!』と、以前住んでいた人たちの様子が、朧げになっていってしまうのは、寂しくもあります。

 江戸や明治の世には、人も物も噂も、賑やかだったのでしょう。巴波の流れを眺めていると、そんな時代の人がそぞろ歩く下駄の音や、舟に棹さす水音が聞こえてきそうです。私にとっては、まさかの栃木、それなのに地元民のように生活しておられるのが不思議でなりません。栄えた下駄屋さんの看板だけが残って、空き家になっている前を、今日も通りました。
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ダシ

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 長田弘に、「ことばのダシのとりかた」と言う詩があります。

かつおぶしじゃない。
まず言葉をえらぶ。
太くてよく乾いた言葉をえらぶ。
はじめに言葉の表面の
カビをたわしでさっぱり落す。
血合いの黒い部分から、
言葉を 正しく削ってゆく。
言葉が透きとおってくるまで削る。
つぎに意味をえらぶ。
厚みのある意味をえらぶ。
鍋に水を入れて強火にかかて、
意味をゆっくり沈める。
意味を浮きあがらせないようにして
沸騰寸前サッと掬いとる。
それから削った言葉を入れる。
言葉が鍋で踊りだし、
言葉のアクがぶくぶく浮いてきたら
掬ってすくって捨てる。
鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら
火を止めて、あとは
黙って言葉を漉しとるのだ。
言葉の澄んだ奥行きだけが残るだろう。
それが言葉の一番ダシだ。
言葉の本当の味だ。
だが、まちがてはいけない。
他人の言葉はダシにはつかえない。
いつでも自分の言葉をつかわねばならない。

 論理的でない言葉が横行している時代だと、この時代の言葉の問題点が指摘されています。言葉の正しい使い方を学んでいない、とくに若者が多くなっているそうです。学校では、習わないのです。ところで明治に活躍した文人の国語力には、驚かされてしまうのです。

 永井荷風が、「十六、七のころ」と言う文章を書いています。

 『・・・わたくしが十六の年の暮、といえば、丁度日清戦役の最中(もなか)である。流行感冒に罹(かか)ってあくる年の正月一ぱい一番町の家の一間に寝ていた。その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人(こうようさんじん)の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。

 二月になって、もとのように神田の或中学校へ通ったが、一週間たたぬ中(うち)またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史(はいし)小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。わたくしは病床で『真書太閤記』を通読し、つづいて『水滸伝(すいこでん)』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣(こうかん)な冊子をよんだことを記憶している。病中でも少年の時よんだものは生涯忘れずにいるものらしい。中年以後、わたくしは、機会があったら昔に読んだものをもう一度よみ返して見ようと思いながら、今日までまだ一度もそういう機会に出遇わない。・・・』

 病弱な中学生の荷風は、すでに漢書を読んでいたのでしょうか。「中年以後」に、それを読み返したかったようです。時代が下るに応じて、日本人の国語力が劣ってきているのです。父や祖父の時代の書物には、きれいな言葉遣いがあって、言葉が選ばれているのです。今は、スマホやパソコンやタブレットの操作で、字を書かない時代になってしまって、それで、自分でも漢字力が落ちているのを感じています。「推」にするか、「敲」にするか迷った作者の表情を思い浮かべてしまいます。

 ネットサイトに、「難読漢字」が見られますが、時々読めるものがありますが、不必要な言葉もありそうで、何か興味本意のように思えるのですが、読めないと悔しい思いもしてしまいます。美しい言葉を受け継いできたので、荷風の年齢に少し加えて、「老年以後」に、明治や大正の作品を、「青空文庫」を開いて読んでみたいなと思っています。

 「ダシ」の効いた文章には魅力を感じます。昆布や鰹節や椎茸でとったダシは、化学調味料を極力使わないで食事作りをしている私には、母の味を思い出させてくれるので、懐かしい味がしてくるのです。古典も、そうなのでしょう。

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浮動

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 この地球を、「不動の大地」、「盤石の基盤」と言われてきました。それで、しっかりと大地を踏みしめて、揺るぐことなく生きるように励まされて、私は両足をしっかりと、この大地の上に置いて、これまで生きて来ました。でも時々、この大地は揺らいでいたのです。中国にいた時、台湾の地震が起きた時に、私は八階ほどの知人の家で食事をいただいていた時でした。珍しく大きく揺れ、立ち上がるほどだったのです。滞華13年間で、たった一度だけの揺らぎでした。

 ところが、私の生まれ育った国は、「地震・雷・火事・親爺」ですから、帰国以来、何度地震を経験して来たことでしょうか。先週のニュースでは、日向灘の海底を震源とする、震度5強の地震が、九州や四国にあったと伝えていました。盤石だと言われ、そう信じてきた、この地球は大丈夫なのでしょうか。

 この球形の地球が、宇宙空間に浮いていること、しかも地球にはマグマが内蔵され、その活動が、噴火や爆発をさせています。時々、入浴に出かける「栃木温泉」は、『地下1000mまで掘削』して湧き出した源泉だと、表示されている温泉ですから、地下水を温める熱源が、地球内部にあると言う証拠です。また、南太平洋のトンガで、海底爆発があって、その爆発が津波を起こし、日本列島にも及んだと、先頃は伝えています。

 そればかりではなく、大気が汚れ、宇宙空間に打ち上げた宇宙船や、その機材の多くがゴミになって浮遊していますし、いつ降ってくるかわからない時代に、私たちの地球は囲まれています。そればかりではなく、星屑が地球に落ちる可能性だって大きそうです。地は揺れ、星は落下してくる、地球は、確かに安全性を失いつつあるのかも知れません。

 神の創造による世界は、初め、『それは非常に良かった。(創世記131節)』、『こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。(創世記21節)』とあります。完成された、美しい世界が、今や均衡を崩し、問題を生じさせたのが、人の果てしない、飽くことのない欲望によったのだと、科学者は結論づけています。そう「罪」の結果なのだと、聖書は言うのです。預言者は次のように言っています。

 『山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる。 (ナホム15節)』

 大地は、宇宙は、叫び声を上げています。だ地球を覆う大気圏も大気圏外も、まさか車の排気ガスで汚れようとは、フォードも豊田佐吉も思いもしなかったことでしょう。ここを生活の場としている人々は、恐れと不安で、心が満たされています。地球は、その機能や役割を回復させることができるのでしょうか。天気の冬の夕暮れ時の南に140kmある「富士山」が眺められます。『鳴動して、爆発があるのだろうか?』と、時々思うのです。今朝の富士は雲の中です。まさに浮動の地球です。

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ハンバーグ

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 暮れから正月にかけて、お邪魔した中国人のご家族の家で、夕食の用意を一度だけさせていただいたのです。中国でも、何度も作った招待料理で、《和風ハンバーグ》とネギと卵の片栗粉スープを私が作り、ポテトサラダを家内が作ったのです。

 けっこう上手にできて、五人で食卓を、和気藹々で囲んで、楽しく食事をしたのです。これは、母が作ってくれた物を真似て自分流に少し変えたり、加えたりして作っています。当時、お肉屋さんには、挽き肉は作り置きがなかったので、母は、わざわざ挽いてもらっていたのです。

 育ち盛りの4人の胃袋を満たすのは大変なことだったろうと、今になって思っています。どんな有名店と比べても、あの味も形状も匂いも、勝るとも劣らない、いえ母のが一番の美味で、まさに《お袋の味》だったのです。

 1959年から1965年の間、当時のNET(今のテレビ朝日の前身です)というテレビ局から、「ローハイド( Rawhide )」と言う、カーボーイの西部劇番組が放映されていました。当時の一番人気の番組で、一時代を画したと言えるでしょう。もう勉強はそっちのけで、夕食時に喰い入るように観たのです。

 舞台は、アメリカのサンアントニオ(Texas )からセデリア( Missouri  州)まで、3000頭もの牛を運ぶ物語でした。後に有名な俳優や映画監督となるクリント・イーストウッドが「ロディー」副隊長の役で、隊長の「フェーバーさん」をエリック・フレミングが演じていました。そのカウボーイたちの食事を作るコックの「ウイッシュボーン」が、腕を振るっていたのです。

 調理された肉や豆やグリーンやパンを、木株や地面に座って食べる場面が、きっと毎回あったのです。それほど豪華ではないにしろ、一日の牛追いの労働から解放されて摂る夕食が、野生味があって美味しそうでした。それと、母の作る洋食(アメリカ食ではなくドイツ食でしたが)の《ハンバーグ》の味が重なり合うのです。

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 普段は、箸で食べるのですが、ロディーたちの真似をして、fork に持ち替えて、ハンバーグを砕いて、ご飯と混ぜて口に運ぶのです。そうするとテキサスの砂っぽい草原の匂いや味がして、フェーバーさんやロディーになったかのように思えて、なんとも美味しかったのです。

 豊かなアメリカが、当時の私たちニッポン少年には、憧れだったのです。繁栄とは程遠い、テキサスに草原を行く男だけの社会は、高度成長期にあった日本では人気の絶頂だったのでしょう、少なくとも自分にとっては、ものすごい刺激となっていました。

 そのハンバーグを作ってくれた母が行っていた教会は、Texas    出身の宣教師さんが牧会をしていました。フェーバーさんとは雰囲気が違っていましたが、青い目の好男子でした。長く母を信仰的に養ってくださった方だったのです。我が家でも、家庭聖書研究会が持たれていたでしょうか。この方は、馬の代わりに車を持っていて、信者さんを送り迎えしておいででした。家内も、そうされた一人だったようです。

 ドイツが原点のハンバーグですが、母手作りの和風ハンバーグも、Texas の草原の夕飯も、ただただ懐かしの一言に尽きます。一度、Texas に、さまざまな思いを抱きながら行ってみたいものです。
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愛知県

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 テレビで聞こえて来たCM で面白く聞いたのが、南利明(脱線トリオの一人)が、『ハヤシもあるでヨー』でした。これが〈名古屋弁〉、遠江弁でも関西弁でもない、独特な語尾が印象的でした。そうしたら、「きしめん」や「八丁味噌」や「名古屋コーチン」が全国区になっていきました。

 長男の嫁御が、愛知県の人で、知多半島の出身です。三浦綾子の「海嶺」に出てくる、三吉(宝順丸の船員の岩吉・久吉・音吉のことです)が所属していた小野浦の近くに、この三吉の頌徳記念碑があり、お父さまに連れて行っていただいたことがありました。その時、伊勢海老まで、美味しくご馳走になってしまいました。

 その船が、鳥羽を出て江戸に向かう途中、遠州灘で遭難し、太平洋を漂流してしまうのです。1832年のことでした。14人の乗組員のうち、14、5歳の三人だけが生き残り、14ヶ月後に、アメリカ大陸の西海岸、カナダに漂着します。インディアンに助けられるのです。バンクーバーからハワイを経由し、イギリスに行き、マカオに着きます。

 そこで、この3人の世話をしてくれたのが、ドイツ生まれの宣教師カール・ギュツラフでした。語学に自信のあるギュツラフは、3人を相手にして聖書の日本語での翻訳の作業を開始するのです。1年がかりで「ヨハネ伝福音書」と「ヨハネの手紙」の日本語訳を完成したのです。最初の日本語訳でした。私は胸を躍らせて、この三人の物語を本と映画で読み、そして観たのです。

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 少なからず個人的な関わりのある愛知県ですが、律令制の下では、尾張国と三河国とであって、517万の人口を擁し、名古屋市が県都です。伊勢湾の沿岸を中心に、中京工業地帯を、三重県にわたって形成している日本有数の経済圏です。県花はカキツバタ、県木はハナノキ、県鳥はコノハズクです。

 歴史的には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を産んだ地で、戦国期から安土桃山期、江戸期にわたっては、この地の指導者が日本を支配して来たことになります。とりわけ、群雄割拠の時代を最終的に終結し、征夷大将軍となったのが、三河国岡崎の出の家康でした。ついに支配264年の江戸幕府を開幕して、天下を治めことになります。

 北関東に住み始めた私は、家康が、江戸を都としたことは、実に賢い決断だったと、今更ながらに思うのです。この広大な関東平野から日本全土を支配しようとした先見の明には、家康が天下人となったのに納得がいきます。大平山の中腹から、南に大きく広がる関東平野を眺めた上杉謙信が、その広大さに感嘆したように、令和の余所者の私も、同じように感じるのです。

 トヨタに代表される、自動車産業は活発で、製造業としての中京工業地帯の「製造品出荷額等」は、44年もの間連続して全国第一位で、2位の神奈川県を大きく引き離しています。

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 そう言えば、伊勢湾台風がありました。「1959年(昭和34年)の9月27日、潮岬から上陸し、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした台風でした。伊勢湾沿岸の愛知、三重の両県での被害が特に甚大であったことからこの名称が付けられています。死者・行方不明者の数は5000人を超え、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事となった(ウイキペデイア)」と告げています。災害の歴史は、繁栄の背後に隠れていますが、いつも覚えておくべきことではないでしょうか。

 戦争に敗れたり、何よりも地震や台風や冷害など、度々起こった災害や事件を乗り越えて、たくましく回復して来た日本の強さは、悲観することなく、頑固なほどに復興に専心しようとする思いを生み出す、逞しさもあったに違いありません。温暖な気候に恵まれてきた愛知県人は、その堅実さで逆境をも超えて来ているのでしょう。

 小学生だった次男と、犬山城を訪ねたことがありました。1537年に建てられ、その天守閣は、現存する最古のものです。小ぢんまりした城で、木曽川の河畔の小高い丘の上に建てられていて、風格があります。姫路城とか名古屋城は巨大なのですが。権勢や偉容を誇るために建てられた城としては、織田信康(織田信長の叔父)が建てたにしては、ずいぶん造りが謙虚なのです。天守閣に伸びる階段は狭かったのが印象的です。

 東京圏と関西圏の間にあって、日本の根幹、基幹産業を担って来た強い自負心が、『あるでよー!』の中京圏、愛知県なのでしょう。

(春の「犬山城」の遠望です)

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Moravia

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 ドイツに、「ヘルンフート兄弟団」と呼ばれるキリスト教団体があります。1722年、Moravia から逃れて来た「フス派」の信仰者の群れが、ドイツのザクセン州のツッテンドルフ伯爵の領地に逃れて来て、それを伯爵が受け入れます。1727年8月13日の礼拝で、聖餐式が行われているうちに、参加者の全員が「聖霊のバプテスマ」を受けます。その後、ツッテンドルフは、「ヘルンフート(主の守り)」と言う、「敬虔主義」の信仰の群れを形成するのです。

 「フス派」は、当時のローマ教会に腐敗を看過できずに批判をしたことで、迫害された、チェコのボヘミア司祭のヤン・フスによって始められた、「プロテスタント派」の先駆者であり、その源流とされています。急進的なものたちとの間に抗争が起こりましたが、穏健派が、聖書の教えの上に立って教会を形成していくのです。

 教会史の中で、ジョン・ウエスレーによる「メソジスト派(規則正しい生き方を旨としたので “ 几帳面 ” と言う意味です)」が誕生し、holyness 教会を形成していきます。このモラビア兄弟団は、「世界宣教」の使命を果たしていく福音宣教団体となって、多くの国々に、宣教師を派遣していきます。

 このヘルンフート兄弟団が、1年365日の一日一日の聖書の言葉を、一冊の「LOUSUNGEN(ヒビの聖句)」として発行していて、日本語訳になって、ベテスダ奉仕母の家から、毎年出版されています。わが家の家の食卓の近くある棚の上には、これと、「いと高き方のもとに(オズワルド・チェンバース/366日の霊想)」、「イエスとともに祈る366日(E.H.ピーターソン)」、「一日一生(内村鑑三)」が置かれています。もちろん「聖書」があります。ものすごく贅沢な幾冊もの霊想書に囲まれていて、一日が過ぎて行きます。

 オズワルド・チェンバースの “ MY UTMOST FOR HIS HIGHTEST ” は、発刊以前、「百万人の福音」に掲載されていた頃からの愛読で、何年も何年も毎朝読んできています。ロウズンゲン以外は、どれか一冊に決めたほうが良さそうです。
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何してんねん?

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 巴波川の流れにまたがる橋の上で、散歩帰りの家内が、有名な芸能人に行き合ったのだそうです。橋の下には、鯉が餌待ちで群れているのですが、めっきり人通りが減って来た、ミツワ通りででした。『鶴瓶さん?何してんねん?』とごく自然に語りかけたのが家内でした(これは脚色で、標準語で聞いたそうです)。『撮影できてますねん!』と答えて、誰とでも行き合うようにして、二言三言の話をして、『じゃあ!』と言って、家に家内が帰って来ました。

 帰って来た家内は、『片岡写真館の近くの橋の上で、鶴瓶さんに会ったわ。』と言うのです。隣のおじさんに会って、話を交わした風に語るのです。芸能界のことには疎い彼女なのですが、この方には好感を持っていて、その対応には緊張も、ときめきもありません。

 話をしてるのを見ていた一人のご婦人が、『すごい、私なんか勇気がなくって話かけられないのに!』と感心して話しかけて来たのだそうです。『握手したの?』と聞く私に、『そんなことしないわよ!』と言ってました。コロナ感染下では好い選択でした。なんとも普通に平日の午後の散歩中の一コマでした。

 この辺は、遊覧船の船着場と、塚田伝説記念館の黒板塀が有名なのだそうで、時々テレビや映画で、時代劇や明治物を撮るために、撮影隊がやってくるのです。散歩仲間が、昨秋は、吉永小百合が来ていたと知らせてくれたそうですが、そこへ駆け出して行かないのがいいですね。

 『寒いのにご苦労様です!』と労って、家内は帰って来たのです。散歩で出会った人との様子を、いつも報告してくれます。寒風の中にも、体調管理を怠らないで、雑貨屋や図書館に出かけている一月です。

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葉物

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 日本の食卓に上る葉物で、最も人気があるのは、「ほうれん草」でしょうか。イランが原産で、そこから東西に、「絹の道(シルク・ロード)」で伝えられて、日本には、中国から江戸時代の初めに伝わっています。中国名が変化した、この呼び名になったようです。交配が繰り返され、今のような多くの種類が生産されているのです。昨日食べたのは、丸く生えた種類で、よくスーパーにあるまっすぐ行儀良く袋に入ったものとは違っていました。甘みが多かったのです。

 もう一つ人気があるのは、「小松菜」です。父の家の正月のお雑煮には、小松菜が入っていて、それに鶏肉、鰹節と醤油で作った出汁で煮たものが定番でした。それででしょうか、小松菜のおひたしや味噌汁を、今でもよく自分で作るのです。

 名のない菜葉(なっぱ)だったのだそうですが、八代将軍の吉宗が、鷹狩の折に出された菜葉を気に入ったのだそうです。それが、江戸は小松川の産であったことから、「小松菜」と呼ばれたのだそうです。

 長く甲府で生活をしましたので、そこに、塩漬けにした「地菜(じな)」を、油揚げと一緒に油炒めした物があって、よくいただいて食べたのです。漬かり過ぎてしまったものを、塩抜きにして作るのです。信州では野沢菜、確か熊本など九州では高菜と呼んでいたと思います。

 中国の華南の街でも、同じようにして料理された菜葉が出て来て、驚いたことがありました。それと、小松菜は同族の菜葉だそうで、父が好きだったからでしょうか、私も好きなので、味噌汁の具は、豆腐かシジミか、この小松菜が多いのです。

 この小松菜は、ビタミンA、鉄分などのミネラルを多く含んでいて、冬場が一番美味しいのだそうで、カルシュウムの摂取には最適だと言われています。食生の不思議さを常々感じるのです。どの国にも、どの民族にも、健康の維持や増進にために、独特な食材があることです。それを偶然に土地から得るか、造物主の配慮ととるかで違いますが、造物種に配慮によるのでしょう。一番は、その土地土地によって、地産地消の食物を摂ることによって、最適な食物があって、人の健康が支えられているのです。

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富山県

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 父の家に、長い間置かれていたのが、「越中富山の薬箱」でした。定期的にやって来て、それまでの間に使った薬の数を勘定して、精算し、新しい薬を補充して帰って行くおじさんがいました。縁側で、母が応対していた姿が思い出されます。『このおじさん、随分遠くからやって来てるんだ!』と、顔を見ては思ったのです。

 その薬売りを comical に歌った「毒消しゃ、いらんかね(三木鶏郎作詞作曲、歌・宮城まり子)」がありました。

「毒消しゃいらんかねー」
わたしゃ雪国 薬うり
あの山こえて村こえて
惚れちゃいけない他国もの
一年たたなきゃ会えやせぬ
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃいらんかね
わたしゃ雪国 薬うり
おなかがいたいは喰いすぎで
頭がいたいは風邪ひきで
胸がいたいは恋わずらい
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃ いらんかね
わたしゃ雪国 薬うり
どんなお方が口説いても
無邪気にエクボで笑ったら
毒気を抜かれて立ちんぼう
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃ いらんかね
わたしゃ雪国 薬うり
旅のカラスか渡り鳥
好いたお方が待ってても
雪がとけなきゃ帰りゃせぬ
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃ いらんかね
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 どうして富山は、「薬都」と言われてきたのでしょうか。江戸時代初期の富山藩二代藩主・前田正甫は、薬に精通していた藩主で、領民への薬の提供を心掛けていたそうです。そのように、富山藩で重用される薬を、家の常備薬として家々に置くようになり、やがて全国展開が始まり、戦後、東京郊外にあった父の家にも、置かれるようになったのです。

 さまざまな情報を持った売人が、面白おかしく、巧みな話術を持って訪ねるからでしょうか、家庭婦人に支持されたようです。それが、この富山県と私の接点、原点でしょうか。日本海と北アルプスの山々に挟まれた地域で、律令制下で、「越中国」と呼ばれていました。北陸道(北國街道とも呼ばれていました)が、山陰道から連なり、越後に続いていました。

 江戸期に、越中には、富山藩(加賀・越中・能登の三ヶ国が所領)がありましたが、隣の加賀百万石の加賀藩は、加賀、富山y越中の一部を支配していたのです。ここも行ったことのない県です。この地の方言で有名なは、「きときと」は魚に付けられていて、「新鮮で生きがよい」、活魚を言い表す言葉なのです。日本海に荒波に揉まれた魚介類は美味しいと評判です。

 この正月は、隣の越後の寺泊から送られてくる魚を、在京の中国の友人夫妻が買って、調理してくださって、美味しくもてなしていただいたのですが、越中の魚も美味しいと言われています。ここは明治以降、工業化が進んでいて、YKKや三協立山などの企業が操業しています。時々、日本海の富山湾から南に向かった北アラプスの写真を見る機会がありますが、旅情を誘うような実に綺麗な風景です。

 人口が102万、県花がチューリップ、県木が立山杉、県鳥が雷鳥、県獣がニホンカモシカ、県魚が鰤(ぶり)です。級友の中にも、父や母の知人にも、知り合いはいないのです。雪深い、農業県ですが、早くに工業化にも積極的に努めていました。雪国の人は忍耐強く、県出身者の源氏鶏太は、「泥臭さ」が、富山県人の特徴だと言っていました。

 立山連峰、黒部渓谷、黒部ダムなどで、有名を馳せた県ですが、残念なことには、一度も観光旅行でも仕事関係でも行ったことがありません。北陸新幹線が開通していますし、飛行機でもよいのですが、一度は訪ねてみたいものです。ちなみに富山空港は、「富山きときと空港」が正式名称ですから、この件の最高の appeal は、やはり、日本海産の魚類にあるのでしょうか。

(立山連峰を背景に飛ぶ全日空機です)
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大寒

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 今日は「大寒」、最も寒い時なのでんですね。でも、樹々の蕾は、しっかりとついていて、膨らむ時を、じっと待っています。富士の上方星が寒そうに来る朝を歓迎しているようです。

大寒の 大平山は 風の中

白鷺の 驚き飛ぶや 大寒か

巴波川 氷もせずに 流れおり

大寒に 強く咲きおり ガーベラは

険しきか 女の道を 妻も来る

よろよろと 男の道を われも行く

吉右衛門(ひと)去りて 我も行くぞと 寒の朝

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