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父の家に、長い間置かれていたのが、「越中富山の薬箱」でした。定期的にやって来て、それまでの間に使った薬の数を勘定して、精算し、新しい薬を補充して帰って行くおじさんがいました。縁側で、母が応対していた姿が思い出されます。『このおじさん、随分遠くからやって来てるんだ!』と、顔を見ては思ったのです。
その薬売りを comical に歌った「毒消しゃ、いらんかね(三木鶏郎作詞作曲、歌・宮城まり子)」がありました。
わたしゃ雪国 薬うり
あの山こえて村こえて
惚れちゃいけない他国もの
一年たたなきゃ会えやせぬ
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃいらんかね
おなかがいたいは喰いすぎで
頭がいたいは風邪ひきで
胸がいたいは恋わずらい
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃ いらんかね
どんなお方が口説いても
無邪気にエクボで笑ったら
毒気を抜かれて立ちんぼう
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃ いらんかね
旅のカラスか渡り鳥
好いたお方が待ってても
雪がとけなきゃ帰りゃせぬ
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃ いらんかね
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どうして富山は、「薬都」と言われてきたのでしょうか。江戸時代初期の富山藩二代藩主・前田正甫は、薬に精通していた藩主で、領民への薬の提供を心掛けていたそうです。そのように、富山藩で重用される薬を、家の常備薬として家々に置くようになり、やがて全国展開が始まり、戦後、東京郊外にあった父の家にも、置かれるようになったのです。
さまざまな情報を持った売人が、面白おかしく、巧みな話術を持って訪ねるからでしょうか、家庭婦人に支持されたようです。それが、この富山県と私の接点、原点でしょうか。日本海と北アルプスの山々に挟まれた地域で、律令制下で、「越中国」と呼ばれていました。北陸道(北國街道とも呼ばれていました)が、山陰道から連なり、越後に続いていました。
江戸期に、越中には、富山藩(加賀・越中・能登の三ヶ国が所領)がありましたが、隣の加賀百万石の加賀藩は、加賀、富山y越中の一部を支配していたのです。ここも行ったことのない県です。この地の方言で有名なは、「きときと」は魚に付けられていて、「新鮮で生きがよい」、活魚を言い表す言葉なのです。日本海に荒波に揉まれた魚介類は美味しいと評判です。
この正月は、隣の越後の寺泊から送られてくる魚を、在京の中国の友人夫妻が買って、調理してくださって、美味しくもてなしていただいたのですが、越中の魚も美味しいと言われています。ここは明治以降、工業化が進んでいて、YKKや三協立山などの企業が操業しています。時々、日本海の富山湾から南に向かった北アラプスの写真を見る機会がありますが、旅情を誘うような実に綺麗な風景です。
人口が102万、県花がチューリップ、県木が立山杉、県鳥が雷鳥、県獣がニホンカモシカ、県魚が鰤(ぶり)です。級友の中にも、父や母の知人にも、知り合いはいないのです。雪深い、農業県ですが、早くに工業化にも積極的に努めていました。雪国の人は忍耐強く、県出身者の源氏鶏太は、「泥臭さ」が、富山県人の特徴だと言っていました。
立山連峰、黒部渓谷、黒部ダムなどで、有名を馳せた県ですが、残念なことには、一度も観光旅行でも仕事関係でも行ったことがありません。北陸新幹線が開通していますし、飛行機でもよいのですが、一度は訪ねてみたいものです。ちなみに富山空港は、「富山きときと空港」が正式名称ですから、この件の最高の appeal は、やはり、日本海産の魚類にあるのでしょうか。
(立山連峰を背景に飛ぶ全日空機です)
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