長野県

.

.

 次女は、結婚してから、婿殿が、英語教師として、長野県の南信地域のいくつかの県立高校で、3年ほど働いていた時期がありました。それは、「JETプログラム(Japan Exchange and Teaching Programme)」、外務省,総務省,文部科学省,(一財)自治体国際化協会(クレア)の協力のもと,地方公共団体が,諸外国の若者を地方公務員等として任用し,日本全国の小学校,中学校や高校で外国語やスポーツなどを教えたり,地方公共団体で国際交流のために働いたりする機会を提供する事業です。

 その在任中に、私たちの最初の孫が、飯田市立病院で生まれたのです。当時、私たちは甲府に住んでいまして、中央自動車道を走っては、飯田の interchange で降りては、休みの日に、家内と二人で出かけました。孫が生まれる以前から、訪ねると、彼らは、南進地域にある、温泉などに連れて、よく案内してくれたのです。

 その長野県は、多くの人たちが、戦前から、満蒙開拓に出かけた地でした。農村は貧しく、農地に比して農業人口が多くて、「人減らし」の政策がとられ、新しい生活を求めて、多くの方々が参加したのです。飯田市の隣に、阿智村(現在では飯田市に編入されています)には、「満蒙開拓記念館」があり、開拓の悲しい歴史を伝えています。国民学校の教師で、阿智村の僧侶の山本慈昭は、団長となって、少年たちを連れて、終戦の年の1945年に、満州に渡りました。ところが、鍬を振るう間なく、ソ連軍の侵攻で、シベリヤ抑留の身となります。

 2年間の抑留生活の後に、帰国して分かったのは、開拓団で出かけた80%の人たちが未帰還であることを知り、満蒙に残留した人たち、とくに孤児の日本帰還のために、山本は奔走したのです。彼自身、多くの子どもたち連れて行った、その責任を感じたからでした。そんなのことで、「中国残留孤児の父」として、中国の黒竜江省に、何度も出かけています。


.
.

 貧しい県であったので、この長野県人は、「教育」を受けることによって、それを克服しようとした県であると聞いています。社会貢献した有名無名の多くの人たちを輩出した県だと言えます。私たちの隣家のご婦人も、長野県人で、高校教師をされていて、とても理知的な方でした。

 そう言えば、木曽や馬籠、妻籠などの旧宿場も訪ねました。映画化もされましたが、農村歌舞伎で有名な大鹿村にも、観劇に連れて行ってもらったのです。初めての歌舞伎が、大鹿村で上演されていたもので、その熱演に感動した私は、みなさんがしていた「おひねり」を、舞台目掛けて投げたのが、昨日のことのように思い出されます。あの歌舞伎は、もう一度観てみたいと思っています。

 朝な夕なに山梨県側から見上げ、冬場は〈八ヶ岳降ろし〉で凍えさせられた八ヶ岳、学校のクラブの合宿で白樺湖に出かけたり、ドライブをして妙高高原、休暇で松原湖、義兄のいた松本市を訪ねたりしたことがあります。諏訪湖の周辺は、「日本のスイス」と呼ばれて、時計などの精密機器の工場が多くあったのです。


.
.

 登山もしたこともありました。一番印象深かったのは、「入笠山(にゅうがさやま)」だったでしょうか。登山付きの方が教会にて、連れて行ってもらったのです。雨降りの翌日、晴れていたので家内と二人で、この山に登ったのです。麓はよかったのですが、登るに連れて、北側の斜面は、雪でした。登るほどに雪の積雪量が多くて断念し、登山道から出て、途中の林道を下山をしたのです。

 危なく遭難しかけたのは、今では笑って話せますが、身の危険を感じたのです。家内の手を引いて、滑ったり、転んだりで、『中年夫婦の遭難!』と言うニュース記事にならないで、やっと駐車場に辿り着くことができました。林道には獣の足跡が残っていたのです。それでも、八方が見渡せる入笠山は、もう一度再挑戦してみたい山、頂上に立つと、気分を爽快にしてくれるからです。

 律令制下では、「信濃国」、また、「信州」とも呼ばれてきました。県花が「りんどう」、県木が「白樺」、県鳥が「雷鳥」、県獣が「ニホンカモシカ」、県人口が「205万」、県都が「長野市」で、山岳県の中に、盆地があって、安曇野や飯田は山々に囲まれて、果物も美味しく素敵な県です。飯田から諏訪湖に向かって、車で走ると、国道沿いの蕎麦屋さんがあって、そこの「蕎麦がき」が美味しかったのです。purine のように練って作られていて、それに出会ってからは、その店に何度も通いました。それは逸品でした。

 そう、一時期は、「駒ヶ根」が気に入ってしまい、《終の住処》は、ここにしようと思ったほどでした。でも、そこには道が開かれず、若い日に思いのあった、そしてずっと思いの中に蘇ってきては消えて行った、「中国行き」の道が開かれたのです。聖書を届けた呼和浩特(フフホト)の街の伝道者が、『来てください!』と言われた声が、思いの中に大きくなって行ったからです。

 .