宣教

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『ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(使徒16章31節)』

 30年以上前になるでしょうか、牧師や伝道者たちの大会に出た時に、瀬戸内海を小船で巡回しながら牧会伝道をされている、同世代の伝道者に会ったことがありました。島から島へと、一人、二人の信者さんを訪問して、集会を持つ奉仕をしていると言っていました。彼らには、〈一千万救霊〉の旗印が上がる中、大教会志向の思いなど全くなかったのです。

 ある方は、大都市で成功的な働きをしていきたいと、意気揚々としていました。さまざまな思いで、救霊活動に従事していて、それでも、アジア圏の中では、最も伝道困難なのが、日本だと言われ続けてきています。アメリカの神学校で学んで、ある人はフリピンに、ある人はインドネシアに、ある人は日本に宣教のために出かけて行きます。

 何年も経って、それぞれの国から神学校の mission 報告会に集ったのです。フィリピンへ行った卒業生は、意気揚々と、『5万人もの受洗者がありました!』と報告して、拍手喝采を浴びました。ところが、日本に出かけて行った卒業生は、『やっと去年はじゅ、、、十人の人が受洗しました!」』、恥いるようにreport したのだそうです。

 この違いは何なのでしょうか。同じほどの間、同じように教育や訓練を受け、同じようなvision や情熱を持っていたのに、数的な奉仕の結果には、雲泥の差があったのです。能力の問題なのでしょうか、人格の違いなのでしょうか。悩み苦しみながら精一杯に、日本人を愛し、仕えたのに、裏切られたり、誤解されたりして、病んだりしてしまったのです。

 私を導いた宣教師は、聖書の教えに優れた器でした。人としても柔和で、謙遜な方でした。宣教報告で帰国すると、日本では出て苦しんでいた胃潰瘍が、全く出ないのだそうです。最後には、前立腺がんを病んで、日本の病院に入院中に、天に帰って行かれました。彼は失敗者なのでしょうか。成功か失敗かは、信者の数によって測るのでしょうか。
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 エスキモーに宣教した方は、何年も何年も福音宣教に励みましたが、誰一人救われませんでした。失意の中にいたのです。一方、エスキモーの部落では、クジラが、全く獲れませんでした。『主イエスは救い主です!』と伝えても、一向に耳を傾けませんでした。そこで、エスキモーたちは、『クジラが獲れたら信じてもいい!』と、その宣教師に言ったのです。

 ところが事故があって海岸の崖から落ちて亡くなってしまうのです。エスキモーたちは、崖を降りて、その宣教師を探したのです。亡くなった宣教師を見つけたのです。その時に、その亡骸の脇に一頭のクジラがいたのです。その一件から、エスキモーの間に、信仰のリバイバルが起きて、その部落の人たちが全員、キリスト信仰に導びかれたのです。

 宣教師は、失意のままなくなり、エスキモーの間に、信仰の覚醒が起こったことも知らないまま、何の報いもなく地上の生涯を終えたわけです。これは作り話ではありません。人が救われるのは、《聖霊の業》であって、人の能力や人格にはよりません。ロバの骨でも、遊女でも、神は用いて不思議なことをされるのです。
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 文化庁の発刊した「宗教年鑑」には、宗教統計調査の結果が報告されています。ただし信者数は各宗教法人からの報告ですので、重複することもあって、全宗教法人から報告された信者の総数は約1億8113万人と、実人口約1億2615万人(2019年12月1日時点、概算値)の約1・44倍となっているのです。

 「キリスト教系」の宗教団体には、一般にキリスト教界からは「異端」とされている末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)や、ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)、世界平和統一家庭連合(統一協会)なども含まれていて、「192万人」になるそうです。異端以外の正当なキリスト者数は、「100万人」になります。次のような統計があります。

 『東京基督教大学(千葉県印西市)の国際宣教センター内に設置されている日本宣教リサーチ(JMR)が、『キリスト教年鑑』『日本カトリック司教協議会イヤーブック』『クリスチャン情報ブック』のほか、各教団発行の資料などを基に行った調査によると、2017年度の日本のキリスト教信者の概数は105万人で、全人口に占める割合は0・83%とされている。』とのことです。

 これも実際の数とは言えないようです。幕末から明治にかけて、キリスト教伝道が始まっていますが、いまだに日本では、クリスチャンの数はわずかと言えます。仏教や神道の信仰の強い地の出雲で、カナダ人宣教師の殿堂の中で、14歳で、私の母は信仰を持って、95で召されるまで、その信仰を守り通し、何人もの方を同じ信仰に導きました。その母から、二人の牧師、一人のキリスト系高校の教師が生まれました。

 こんな飽きっぽい、駄目な私が、クリスチャンとされたのは、ただの憐れみ、恩寵によります。そんな私を見て育てられた子どもたち4人は、みんなキリスト信仰を持って生きているのです。孫たちも同じように信じています。一人の孤独な、しかも実の親の愛を受けられなかった少女の生涯に、生きる希望を与え、神が父であることを示して、信じたのは、宗教ではなく、キリストでした。《救われる者は救われる!》からなのでしょう。

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