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暮れから、ひばりが丘の友人宅におります。家内の故郷は、かつては松林や麦畑だったのだそうです。昔日の感もなく、思い出だけが残っているのでしょう。それ以前の江戸時代には、武蔵野の櫟林(くぬぎばやし)の原野が広がっていたことでしょう。朝、散歩をしていて、踏切で、電車が近づいているのを知らせる、鐘の音が聞こえてきて、遮断機が降りて、目の前を電車が通過して行きます。子どもの頃を呼び起こすような風景や音を見聞きしている正月です。
この辺りには、「野火止」の地名が残ってのですが、江戸を火から守っていたのでしょう。同じように、江戸を火の戦禍から守って、江戸城を無血開城する様に、薩長の倒幕軍に進言したのが、直参旗本の勝海舟だったのです。いわば東京都の最高の功績者だと言えます。明治維新以降は、要職に就くのですが、すぐに海舟は辞任すると言うことを繰り返すほどで、出世欲や金銭欲の強くない人だった様です。
この勝海舟に師事した人に、米山梅吉がいました。梅吉は1868年に江戸に生まれ、沼津で育ち、青山学院(当時は東京英和学校)に学んだ後に、アメリカに留学をしています。帰国後、勝海舟に師事しているのです。銀行家として生きた方で、晩年には、青山学院の小学校の校長も歴任しています。彼は、日本に"ロータリークラブ"を設立した人でした。
このクラブは、社会奉仕と国際親善を目的として、1905年、アメリカのシカゴに最初のクラブが誕生しています。このメンバーは、当初、クラブにおいて1業種1人が原則であったのですが、現在、その決まりは緩められている様です。
ロータリークラブの理念は、「人道的な奉仕を行い、すべての職業において高度の道徳的水準を守ることを奨励し、世界においては、親善と平和の確立に寄与することを指向した、事業及び専門職務に携わる指導者が世界的に連携した団体である。」とされています。
銀行家として活躍しながら、社会への奉仕を続けてきた梅吉は、クリスチャンでした。この方が亡くなった後、1967年に、文部省を主管官庁とする、海外からの留学生への経済援助や心のお世話を含んだ、奨学金事業を設立しています。それが「ロータリー米山記念奨学会」で、「勉学・研究のために日本に在留している私費外国人留学生に対し、日本全国のロータリアンからの寄付金を財源に奨学金を支給し支援する、民間の奨学財団です。」と奨学会のサイトにあります。
実は、私たちのお世話をしてくださった姉妹は、国立S大学の大学院に留学してる際、この奨学金を受けていたのだそうです。その援助のお陰で、博士号を取得して、大学の法学部で、教壇に立っておられます。この方の教え子で、厦門で弁護士をしている方が、私たちをおうちに一泊させてくれたことがありました。送り迎えもしてくださったのです。駅に送っていただいた日の午前中には、裁判があって、弁護をされていた のにでした。
そんなことを思い出しています。どうも、目に見えない《愛の連鎖》と言うものが、確かにあるのだということが分かります。愛を蒔くなら、愛を刈りとるという「原則」なのです。多くの愛と親切と犠牲とがあって、奨学金を得て、日本で学業をし、母国の若者を教えていくと、その教え子たちが、恩師が学んだ国からやって来た私たち夫婦のお世話をしてくれるという絆です。
今回、上京した私たちをお世話くださっている方は、華南の街で、家内が日本語クラスで教えていたお嬢さんのお父さんなのです。そんな出会いで、行き来が始まり、パン製造をされている工場で、聖書研究会がもたれて、従業員のみなさんと賛美し、お話をさせていただきました。その繋がりが、いまだにあって、暖かなもてなしを受けています。
このような正月を過ごすのは初めてのことで、訪ねて来られる中国のみなさんや、昨日は、同じ教会で交わりをしていたご夫妻が、ご長男と一緒に訪ねて来られ、その交わり楽しみました。夕食までもご夫妻で用意してくださって、5時間も交わりをさせていただいたのです。
(「田無駅(ひばりヶ丘駅)」、「野火止用水」です)
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