愛知県

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 テレビで聞こえて来たCM で面白く聞いたのが、南利明(脱線トリオの一人)が、『ハヤシもあるでヨー』でした。これが〈名古屋弁〉、遠江弁でも関西弁でもない、独特な語尾が印象的でした。そうしたら、「きしめん」や「八丁味噌」や「名古屋コーチン」が全国区になっていきました。

 長男の嫁御が、愛知県の人で、知多半島の出身です。三浦綾子の「海嶺」に出てくる、三吉(宝順丸の船員の岩吉・久吉・音吉のことです)が所属していた小野浦の近くに、この三吉の頌徳記念碑があり、お父さまに連れて行っていただいたことがありました。その時、伊勢海老まで、美味しくご馳走になってしまいました。

 その船が、鳥羽を出て江戸に向かう途中、遠州灘で遭難し、太平洋を漂流してしまうのです。1832年のことでした。14人の乗組員のうち、14、5歳の三人だけが生き残り、14ヶ月後に、アメリカ大陸の西海岸、カナダに漂着します。インディアンに助けられるのです。バンクーバーからハワイを経由し、イギリスに行き、マカオに着きます。

 そこで、この3人の世話をしてくれたのが、ドイツ生まれの宣教師カール・ギュツラフでした。語学に自信のあるギュツラフは、3人を相手にして聖書の日本語での翻訳の作業を開始するのです。1年がかりで「ヨハネ伝福音書」と「ヨハネの手紙」の日本語訳を完成したのです。最初の日本語訳でした。私は胸を躍らせて、この三人の物語を本と映画で読み、そして観たのです。

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 少なからず個人的な関わりのある愛知県ですが、律令制の下では、尾張国と三河国とであって、517万の人口を擁し、名古屋市が県都です。伊勢湾の沿岸を中心に、中京工業地帯を、三重県にわたって形成している日本有数の経済圏です。県花はカキツバタ、県木はハナノキ、県鳥はコノハズクです。

 歴史的には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を産んだ地で、戦国期から安土桃山期、江戸期にわたっては、この地の指導者が日本を支配して来たことになります。とりわけ、群雄割拠の時代を最終的に終結し、征夷大将軍となったのが、三河国岡崎の出の家康でした。ついに支配264年の江戸幕府を開幕して、天下を治めことになります。

 北関東に住み始めた私は、家康が、江戸を都としたことは、実に賢い決断だったと、今更ながらに思うのです。この広大な関東平野から日本全土を支配しようとした先見の明には、家康が天下人となったのに納得がいきます。大平山の中腹から、南に大きく広がる関東平野を眺めた上杉謙信が、その広大さに感嘆したように、令和の余所者の私も、同じように感じるのです。

 トヨタに代表される、自動車産業は活発で、製造業としての中京工業地帯の「製造品出荷額等」は、44年もの間連続して全国第一位で、2位の神奈川県を大きく引き離しています。

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 そう言えば、伊勢湾台風がありました。「1959年(昭和34年)の9月27日、潮岬から上陸し、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした台風でした。伊勢湾沿岸の愛知、三重の両県での被害が特に甚大であったことからこの名称が付けられています。死者・行方不明者の数は5000人を超え、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事となった(ウイキペデイア)」と告げています。災害の歴史は、繁栄の背後に隠れていますが、いつも覚えておくべきことではないでしょうか。

 戦争に敗れたり、何よりも地震や台風や冷害など、度々起こった災害や事件を乗り越えて、たくましく回復して来た日本の強さは、悲観することなく、頑固なほどに復興に専心しようとする思いを生み出す、逞しさもあったに違いありません。温暖な気候に恵まれてきた愛知県人は、その堅実さで逆境をも超えて来ているのでしょう。

 小学生だった次男と、犬山城を訪ねたことがありました。1537年に建てられ、その天守閣は、現存する最古のものです。小ぢんまりした城で、木曽川の河畔の小高い丘の上に建てられていて、風格があります。姫路城とか名古屋城は巨大なのですが。権勢や偉容を誇るために建てられた城としては、織田信康(織田信長の叔父)が建てたにしては、ずいぶん造りが謙虚なのです。天守閣に伸びる階段は狭かったのが印象的です。

 東京圏と関西圏の間にあって、日本の根幹、基幹産業を担って来た強い自負心が、『あるでよー!』の中京圏、愛知県なのでしょう。

(春の「犬山城」の遠望です)

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