ダシ

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 長田弘に、「ことばのダシのとりかた」と言う詩があります。

かつおぶしじゃない。
まず言葉をえらぶ。
太くてよく乾いた言葉をえらぶ。
はじめに言葉の表面の
カビをたわしでさっぱり落す。
血合いの黒い部分から、
言葉を 正しく削ってゆく。
言葉が透きとおってくるまで削る。
つぎに意味をえらぶ。
厚みのある意味をえらぶ。
鍋に水を入れて強火にかかて、
意味をゆっくり沈める。
意味を浮きあがらせないようにして
沸騰寸前サッと掬いとる。
それから削った言葉を入れる。
言葉が鍋で踊りだし、
言葉のアクがぶくぶく浮いてきたら
掬ってすくって捨てる。
鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら
火を止めて、あとは
黙って言葉を漉しとるのだ。
言葉の澄んだ奥行きだけが残るだろう。
それが言葉の一番ダシだ。
言葉の本当の味だ。
だが、まちがてはいけない。
他人の言葉はダシにはつかえない。
いつでも自分の言葉をつかわねばならない。

 論理的でない言葉が横行している時代だと、この時代の言葉の問題点が指摘されています。言葉の正しい使い方を学んでいない、とくに若者が多くなっているそうです。学校では、習わないのです。ところで明治に活躍した文人の国語力には、驚かされてしまうのです。

 永井荷風が、「十六、七のころ」と言う文章を書いています。

 『・・・わたくしが十六の年の暮、といえば、丁度日清戦役の最中(もなか)である。流行感冒に罹(かか)ってあくる年の正月一ぱい一番町の家の一間に寝ていた。その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人(こうようさんじん)の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。

 二月になって、もとのように神田の或中学校へ通ったが、一週間たたぬ中(うち)またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史(はいし)小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。わたくしは病床で『真書太閤記』を通読し、つづいて『水滸伝(すいこでん)』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣(こうかん)な冊子をよんだことを記憶している。病中でも少年の時よんだものは生涯忘れずにいるものらしい。中年以後、わたくしは、機会があったら昔に読んだものをもう一度よみ返して見ようと思いながら、今日までまだ一度もそういう機会に出遇わない。・・・』

 病弱な中学生の荷風は、すでに漢書を読んでいたのでしょうか。「中年以後」に、それを読み返したかったようです。時代が下るに応じて、日本人の国語力が劣ってきているのです。父や祖父の時代の書物には、きれいな言葉遣いがあって、言葉が選ばれているのです。今は、スマホやパソコンやタブレットの操作で、字を書かない時代になってしまって、それで、自分でも漢字力が落ちているのを感じています。「推」にするか、「敲」にするか迷った作者の表情を思い浮かべてしまいます。

 ネットサイトに、「難読漢字」が見られますが、時々読めるものがありますが、不必要な言葉もありそうで、何か興味本意のように思えるのですが、読めないと悔しい思いもしてしまいます。美しい言葉を受け継いできたので、荷風の年齢に少し加えて、「老年以後」に、明治や大正の作品を、「青空文庫」を開いて読んでみたいなと思っています。

 「ダシ」の効いた文章には魅力を感じます。昆布や鰹節や椎茸でとったダシは、化学調味料を極力使わないで食事作りをしている私には、母の味を思い出させてくれるので、懐かしい味がしてくるのです。古典も、そうなのでしょう。

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