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衝撃的な、戦後の若者像を、石原慎太郎が描いたのが「太陽の季節」でした。この本は best seller で、sensational を巻き起こしたのです。でも描かれた若者は、主流ではなく、湘南に生きる、豊かな家庭で生きる青年たでした、その実態を、興味深く書き上げていたのです。芥川賞受賞作品で、作者は現役の大学生でした。一躍、時代の寵児となり、小説が映画化すると、弟で、当時の湘南で生活をしていた裕次郎が、その生態を演じて、大スターとなっていきます。あの時代に作られたhero だったわけです。
髪型も〈慎太郎刈り〉が流行し、私も、中学では坊主頭でしたが、高校に入ると、慎太郎刈りに近い、〈スポーツ刈り〉にし、裕次郎の足を引きずるような歩き方を真似て歩いていました。足りなかったのは、小遣い銭だったでしょうか。かえって、それが深刻な不良になるのを抑止したかも知れません。
兄は知的に、弟は自由奔放に生きていて、この石原兄弟は、私たちより上の世代で、1950年代後半から青年期を過ごした者たちにとっては憧れでした。その石原慎太郎が亡くなられました。息子の良純さんが、次のように語っていました。
お父さんは、こう言っていたそうです。『俺はいい人生だった!』とです。良純さんは、『本当に楽しくいろんな人に支えられて生きてきた人だったと思うけど、89年間、それをやり続けて亡くなる最後の2週間はつらかったと思っているんです!』、一方で、『普通、余命宣告したら、そこでいろいろ思うじゃない?ウチのオヤジ、すぐ立ち直って医者に俺の何がわかるって思うワケ。そこで変わらない・・・最後ずっと怒ってたもんね、なんで俺が調子悪くて寝ていなくちゃいけないのかって!』と続けます。
『生命力の強さみたいな、自分が前へ前へ進んでいくことだけに執着して生き抜いてきた人だから、肉体が滅びたときに自分の精神はなくなってしまったら、その先は、ないっていう・・・最後の2週間でその恐怖心みたいなものが芽生えて本当に動けなくなった・・・その最後の2週間以外はずっと前を向いていた!』、そう父を語っています。
だれにも、死の恐怖があるのでしょう。死に対して、人は勝てないのでしょうか。聖書に、次のように記されています。
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『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 (1コリント15章54〜55、57節)』
ローマ帝国の支配下の基督者は、ネロ帝の元で迫害を受けました。闘技場で放たれた飢えたライオンに噛み砕かれ、また火に焼かれました。しかし天国に凱旋する希望と復活の約束を信じて、死を恐れなかったと伝えられています。なぜなら、『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ1章10節)』、そう信じたからです。
(“アニーお笑い体験マガジン” 、 ”キリスト教クリップ“から)
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