明日

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Green Tree with red Apples. Vector Illustration.

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 九歳の親鸞が、詠んだとされる和歌があります。

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かむものかは

 この歌を、上の兄に教えられたのです。その意味は、『美しく咲いている桜が、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜中に強い嵐が吹いてきて、花びらを散らししまうかも知れない!』と言ったのです。道を成す人の幼い日の垣間見せた賢さに驚かされます。親鸞は、自分の命を桜の花に例えたのです。「今」の大切さを心に期して、生きた人だったのでしょう。

 1958年、中学生の頃であったでしょうか、石原裕次郎が、「明日は明日の風が吹く」と言う歌を歌って、それが映画化されたのです。その前年でしょうか、「ケセラセラ」と言う、スペイン語の歌が和訳されて、『明日はなるようになるさ!』と歌って、流行っていました。

 新美南吉も、「明日」と言う詩を書きました。

花園みたいにまつてゐる。
祭みたいにまつてゐる。
明日がみんなをまつてゐる。

草の芽
あめ牛、てんと虫。
明日はみんなをまつてゐる。

明日はさなぎがてふになる。
明日はつぼみが花になる。
明日は卵がひなになる。

明日はみんなをまつてゐる。
泉のやうにわいてゐる。
らんぷのやうにともつてる。

 明日はないかもしれないと言うように、哲学的な捉え方をするか、それとも、『どうにかなるさ!』と気楽に、しかし実態のなさで捉えるか、明日って、そんなに漠然としたものなのでしょうか。

 明日、世界が終末を迎えようとしても、『私は、リンゴの木を植えよう!』としたと言われている(出典の確証は無いようです)ルターや、イスパニア(スペイン)にまで足を伸ばし、福音を宣べ伝えたいと願ったパウロのように、明日に望みを繋いで生きたほうがいいのです。

 明日は不確かに思えて、どうなるのかの不安が、地の表を覆っている今日日、29歳で結核で亡くなった新美南吉は、蛹(さなぎ)や蕾(つぼみ)や卵は、きっと蝶になり、花開き、鶏にかえると信じて、明日を捉えていた人だったのです。次の season が、必ず来ると言う《待望》って、とても快い生き方ではないでしょうか。

 中国語は、人から離れる時に、『明天見mingtianjian』と言う表現を使います。それは《願望》です。明日への《肯定》なのです。『だから元気でいてね!』の《祝福》でもあるのでしょう。

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