與一様

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 『祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。』、高校の国語で、「平家物語」を学んだ冒頭の部分です。この書の「扇の的」の段は、次のように記しています。

 『ころは二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折節北風激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。
舟は、揺り上げ揺り据ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。
(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれもいづれも晴れならずといふ事ぞなき。

与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光の権現(ごんげん)、宇都宮、那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。
これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度(ふたたび)(おもて)を向かふべからず。
今一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢外させ給ふな。」
と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。

与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
小兵(こひょう)といふ条、十二束三伏(じゅうにそくみつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要際(かなめぎわ)一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。
かぶらは海に入りければ、扇は空へぞ上がりける。
しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一揉み二揉み揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたを叩いて感じたり。
陸には源氏、えびらを叩いてどよめきけり。

あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男の、黒革をどしの鎧着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持ったるが、扇立てたりける所に立つて舞ひ締めたり。
伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄つて、
「御定(ごじょう)であるぞ、つかまつれ。」
と言ひければ、今度は中差取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、舟底へ逆さまに射倒す。
平家の方には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。
「あ、射たり。」
と言ふ人もあり、また、
「情けなし。」
と言ふ者もあり。』

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 これは、源義経の命を受けた「那須與一」が、平氏の軍との一戦、「屋島の戦い」で、海に浮かぶ舟の扇を、一矢を放って射抜くという話です。日本史の中の逸話として有名な話ですが、与一は、下野国(現在の栃木県)の那須岳の近くの出身でした。

 その武勲によって、兄たちは平家に与(くみ)したので、家督相続は、那須佐久山の父・那須資隆の十一番目の子の「與一宗隆」が継いでいます(佐久山城の那須地域では、領民は誇らしく、「お殿様」として接したのでしょう。

 大田原市では、この那須与一を「郷土の誉」としています。那須岳から吹き下す冬季の雪は冷たそうですが、郷土の名を挙げた人材だったわけです。ここ栃木では、誇る人や事物や名産や歴史的事件などに、「様(さま)」を付けるのです。例えば、宇都宮は「雷都(らいと)」と呼ばれるほど、雷で有名なのですから、これに、様をつけて「雷様」と、怖いものなのに愛称をもって呼んでいます。

 それで「與一様」と、親愛の情を込めて呼んでいるのです。「与一温泉」と名のついた温泉もあったり、マンホールの蓋にも描かれ、西瓜にも、その名をつけてています。『あるかな?』と思って探してましたら、「与一栗饅頭」がありました。

 すみよい街として、栃木県下では高く評価されているのです。この那須の出身で、若き友人のお話によると、夏場は涼しいので、都会からの移住者が多いのだそうですが、寒さの厳しい冬がやってきますと、みなさん尻込みをして、去っていく人もあるのだそうです。甲州八ヶ岳の麓の別荘地は、boom の頃は乱立するほどですが、やがてそれが去って、廃屋が点在していたのと似ています。土地の人は、寒さに耐えて生き続けてきた強さがあるのでしょう。

(美味しい「与一西瓜」です)

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