本地の歴史

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 ここ栃木市は、かつて足利藩だったことを知って驚きました。足利は、日本史で学んだ足利氏の支配した地で、室町幕府(1337年)を起こす前、清和源氏の流れを汲み、下野源氏の一族でした。鎌倉幕府の時期には、御家人の要職にあったのです。下野国の足利庄に在を置き、「坂東(ばんどう/関東地方の古称です)の雄」でした。鎌倉幕府を滅した後、あの足利尊氏が征夷大将軍に着き、京都に幕府を開いたのです。

 数年前に、足利学校を見学しました。平安時代に初期に創設され、「坂東の学校」として前途有為の若者を集めたようです。宣教師のザビエルも、その国元のイスパニアに書き送った書状で紹介しています。日本中から学ぶ者がやって来て、論語などから孔子の思想を学んだのです。

 イギリスのオックスフォード大学は、1096年に、最初の講義が行われたそうですから、それよりもはるか昔に、足利学校は開校されていたことになります。日本最古の高等教育機関だったことになります。足利市民は、ここを「足利様」と親しみを込めて呼んできたのだそうです。庶民からの支持があって、応援が飛んでいたと言うことでしょうか。

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 源頼朝も足利尊氏は、元々は、源義家(平安期)を祖とした一族で、源氏の天下は長く続いてきているわけです。ですから、「驕る平家」は、日本に全土に、落武者となって散っていき、農業に従事して、二度と天下を狙うことはなかったわけです。県北の湯西川には、落人部落だったと言われ、温泉で注目されています。室町幕府も、15代まで続くのですが、織田信長によって義昭が追われ、その時点で滅びています(1573年)。

 農民も商人も職人も、覇権競争の外にあって、畑地は踏み荒らされたり、家は焼かれても、再び地を耕して種を巻き、稲を植え、家を建て直しては住み続けて、営々と生活を続けてきているわけです。散歩道に巴波川の流れを眺めるのですが、舟運に従事した人々は、荷を舟に載せたり下ろしたり、舟の櫓を漕ぎ、舟を曳きながら生きていたのを思ってみますと、農も商も工も、日常は平凡な労働の繰り返しだったことになります。

 政権交代が繰り返され、足利藩だった栃木にも、皆川氏が、市の北の地に城を設け、その後、栃木に城を新たに建てるのですが、幕府の改易で、皆川氏は退いてしまいます。そして足利藩の支配下に置かれて、明治維新を迎えるのです。散歩で歩く日光例幣使街道も、道沿いの商人も農民も、支配者が変わろうと、日常を営々として続けてきたわけです。いつの世も、民百姓は健気に、逞しく生き続けてきたのです。市内に「城内町」という地名があるのは、その名残なのでしょう。

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皆川城址や湯西川温泉に行ったりしたら、源平盛衰の余韻や、室町時代の空気を感じることができるでしょうか。古い日本が残されて、今があるわけです。

(皆川城址、足利学校、湯西川です)

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