『僕はウナギだ。』、『あたしは親子丼です!』、『君はラーメン?』、この文章は、主語と述語で成り立っているように見えますが、どうもそうではなさそうです。
この会話は、三人で、食堂に入って、お昼ご飯を食べようとしていたのでしょう。壁に吊るされた、品書きを見ていると、お茶を持ってきてくれた店員さんに、『何にいたしましょう?』と聞かれて、三人が食べたいものを注文しているのです。
中国に行ったばかりの頃、なんと言うのか判らないので、向こうの卓の客が食べてるのを指差して、覚えたての中国語で、『那个!(あれ)』と言ったのです。それで意思の疎通があって、ちゃんと思った通りの料理が運ばれてきたのです。代名詞や方向詞でも、指差しでも通じるわけです。でも人は、言葉で意思を伝え、相手を理解するので、どう喋るかは大切です。
日本語で、[主語と述語]や[助詞の使い方]を教えた時に、このことを取り上げた授業をしたことがあったのです。日本語は、曖昧な言語で、主語を省略して話す場合が多いからです。私は、説教時に、言い足さなければならないことが、よくありました。
同じ状況や環境にいると、相手に『理解してもらえる!』と言う思いがあって、主語を省略しても、外国人の学習者を混乱させてしまうだけで、誰なのか、何なのかははっきりしないといけないのです。
『僕はウナギだ!』 と言ったら、店員さんは、『あなたってウナギなんですか!』などとは決して思わないわけです。でも、文章化したら、主語の私が「ウナギ」になってしまいます。
言葉は、やはり見える様に話さなければならないのですが、明治期以降の文豪たちの書き言葉は、実に重みがあり、流暢で、美しいのです。日本語の中に、カタカナ語が入ってきて、その割合が多くなってきて、英語と思しきカタカナ語の原語の spell が解らないので、英語の辞書を引くことができません。
だいぶ前でしたが、台湾の教会でお話しさせていただいたことがありましたが、通訳をしてくださる牧師さんに、『お願いがあるのですが、カタカナ語は使わないでくださいますか!』と言われました。英語はご存知でも、カタカナ英語は理解できないからです。
母国語が曖昧になってしまうと、外国語学習にも影響がある様です。長男の子どもたちが、[英検]に挑戦して、頑張っているのです。良い英語学習者になるためには、母語の理解が基礎にあるのが理想的だと言われています。そのためには、夏目漱石や田山花袋や泉鏡花などの作品を読んで、母国語の力を付けて欲しいものです。
(“イラストAC”のイラストです)
.