正鵠を射ることばを

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 「正鵠(せいこく)を射る」と言うことばがあります。AIによりますと、「物事の核心や要点、急所を正確に捉えることを意味します。弓の的に描かれた中央の鳥(正鵠)を射外さないように、物事の最も大切な部分を的確に見抜くことを例えた表現です。 」とあります。

 有能な司会術を心得ている方は、その的確な質問を、質疑応答の流れの中で、ちょうど、弓矢が的を射る様に、相手の本心にぶっつけていくのです。話の流れを折らずに、隠れている事実を浮き上らすかの様に、相手に話させてしまうテクニックでしょうか。

 そうする時には、視聴者がいるわけです。テレビが、父の家に入ったきっかけは、兄がしていた運動部が、関東リーグで優勝をして、日本選手権を、関西リーグの優勝校と対決するという、日本選手権がテレビで中継されると言われた時でした。父は、電気店からテレビジョンを買って、わが家の中心に鎮座しました。

 ラジオにない、映像で時事や事件や流行を、聞くだけではなく、観られると言った、一大マスメディアの侵入でした。大切な家族間の語らいが、そのテレビの映像に奪われたと言ったらいいでしょうか。どなたかが、テレビに出現を、「一億白痴時代の到来」と言っていました。

 流暢に、早口に捲し立てるだけではなく、的確に、的を得て話し合う能力は、天賦のものなのでしょうか。それとも鍛錬、努力の結果なのでしょうか。高橋圭三というアナウンサーが、NHKにいました。「私の秘密」、「ジェスチャー」という、人気のテレビ番組があって、その司会をされた方でした。

 初期のアナウンサー、今ではキャスターという様ですが、ほとんどが男性でした。女性が、お飾りに様な立場から、キャスターになるのは、ずっと後になってのことでした。その女性キャスターに、国谷裕子という方がおいでで、実にsmartで、明晰で、はっきりものの言える方でした。

 1993年4月5日から、「クローズアップ現代」のレギュラーキャスターを番組開始時からされました。ところが2016年1月12日付で降板してしました。日本にいなかった私は、降板の事情は知りませんでしたが、強力な圧力がかかったと言われていました。なにか強く影響を受けた方たちからのものだったかも知れません。

 後になって、2016年5月1日に発刊された、「世界(岩波書店)」で、次の様に、国谷裕子は書いています。

『インタビューで私は多くの批判を受けてきたが、23年間、私に与えられた「クローズアップ現代」キャスターの仕事の核は、問いを出し続けることであった様に思う。それはインタビューの相手だけではなく、視聴者への問いかけであり、そして絶えず自らへの問いかけでもあった気がしてる。言葉による伝達ではなく、言葉による問いかけ。これが私にとって、キャスターは何をする仕事なのかという問いに対する答えかも知れない。』

 語ること、言葉で飯を喰ってきた我が身を考えますと、語ったことの反響が大きいことを痛感してきました。誤解されること、反発されること、感情が傷つけられることで、非難を被ってきたのです。聖書の枠を超えない話をしたつもりですが、例話の仕方の間違いなどでの誤解がありました。

 使徒ヤコブが、その書き送った書簡で、次の様に記しています。

『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、言葉で失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。(新改訳聖書 ヤコブ3章2節)』

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 「舌は・・・不義の世界(6節)』、『舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。(8節』と言っています。

 一方では、剣の様に危うかったりします。言葉は、人を殺しも生かしもする、ものすごいEnergie  と破壊力、そして創造力、回復力を持っています。

 最も善意的で力ある言葉は、「聖書」です。主である神さまは、「ことば」と言われます。ギリシャ語で、“logos(聖書のイエスさまの時代、日常的に語られていた言語は、アラム語でした。このアラム語で「ことば」は、「メモラ」だと学んだことがあります)“ で、イエスさまの人格を表しています。

 人をい生かす「ことば」で、数限りない人を生かし、激励し、導き、用いてきたのです。家内の母は、学生の頃、神田の古本屋街を、何度も「真理」を探し歩いたそうです。終戦後、上の娘が、駅前でもらった、「約翰傳(ヨハネの福音書の文語版)」を読み始めて、「太初に道(ことば)あり道は神と偕にあり道はすなわち神なり」の「ことば」が、義母の心を、矢が的を射る様に、射たのです。

 その頃、栄養事情が悪く、肋膜炎を起こして、東京郊外の清瀬にあった「結核病院」に通っていました。病友に女子大生がいて、医師の不用意な〈ことば〉を聞いて、ショックを受けた女学生は、その晩に亡くなったそうです。権威や立場のある人の言葉の重さに、人の死期を早めるような言葉を使った、その医師を、義母は激しく責めたのだそうです。

 そんな時期に読み、出会った「神の子イエス」を表す「ことば」を知ろうと、冊子を配ったアメリカ人宣教師を訪ねたのです。問答を重ねて、ついに、「ことば」である神、十字架で、信じる者の罪を負って、身代わりに死んでくださった、イエスをキリストと信じたのです。101歳で召されるまで、信じ続けて、主の安息に入ったのです。

 また私の母は、聖書が語る「ことば」を聞いて、神さまが「父」であることを知って、父なし子の欠けを、私生児の惨めさや孤独を埋め合わせて余りある「救い」に預かりました。95歳で召されるまで、信仰を持ち続けたのです。

 人の言葉に、驚くほどの力があるなら、神さまのことばは、想像を絶する力があります。今は、世の中に驚くほどの言葉が溢れかえっています。そんな中で、命を生み出し、弱った者に、力や激励を与えることばを語り、「正鵠を射たことば」を聞きたいものです。

(ウイキペディアの「流鏑馬」、クムラン洞窟の「イザヤ書」です)

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