誰でも

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 『薬の名前の連続みたいですね!』と言うのが、先日、近所の方のお宅にお招きいただいた時に、手土産に持参した「新約聖書」を読み始められての感想でした。イエス・キリストの系図が、巻頭に記されているので、そう思われるのも当然だと思ったのです。

 聖書は、「神の霊感」を受けた筆者が書いています。時代も、書き手の背景も違うのですが、私の最初の読後の印象も、『編集が上手くないよ!』でした。でも、聖書記者に霊感を与えた神を知るなら、もう少しせいかくな言い方をしますと、《神との出会い》があった時から、よく判るようになったのです。薬の名の羅列の様でも、そこに登場する人たちの生き方などに意味があるのを知るからです。

 例えば、「ラハブ」という婦人は、エリコという街で「遊女」をしていた人なのです。イエスさまは、人としての祖先の中に、そんなことを職業としていた婦人がいたことを、平気の平左で書いてしまうのです。『そんなで大丈夫?』と思わせてしまい、それを知った人は、もう聖書を読み続けるのも、イエスを知るのもやめて、拒否反応を示してしまうかも知れません。

 そんな異教の神々の子、生まれや背景の女性でも、神の救いに預かり、救い主が人と生まれた家系の中に入ることができたのです。もちろん、その仕事を良いと言ってるのではなく、どんな背景があっても、神は気にしません。《今》がどうなのかなのです。どんな〈過去〉も〈罪〉も、もし悔い改めるなら赦されるからです。ラハブは、神のご用のために、エリコの街に遣わされた斥候たちを匿ったことによって、神の民の間で生活することを許され、《救い主の家系》の一人とされたのです。

 つまり、それは《神の選び》のことを言ってるのです。義人ぶっていても、実は悪戯小僧で、コソ泥で、いじめっ子で、暴力を働き、悪所に出入りし、人を騙して、いつかは捕まるのではと、おどおどして生きていた者を、救いに導き、神の子とし、神に仕える伝道者の端くれに加えていただいたのは、《神の恩寵》以外に考えられません。

 殺人者でも詐欺師でも、奴隷商人でも大泥棒でも、売春婦でも stripper でも、女囚でも女女衒でも、だれでも救われるのです。公平なのです。ですから誰でも、もし罪を悔いて、神の前に出るなら、《神の子》とされるのです。これが聖書が語る、「救い」なのです。

 『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント517節)』

 だれでも、どんな人でも、どんな過去があっても、《機会》があるのだと、聖書は言うのです。私が一番気になる聖書の登場人物は、「エフタ」と言う人です。聖書は、この人について、次の様に記しています。

 『さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。 ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」 そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた。(士師記1113節)』

 遊女の過去を持つ母の子、それゆえ家族から疎まれ、家督相続の権を奪われ、追い出されたエフタが、ごろつき集団の頭目に転落します。ところがエフタは、イスラエルの「救出者」とされる逆転人生の人なのです。それは通常、あり得ないことでした。でも、人生をやり直すことができたのがエフタでした。彼の様な変化や逆転を経験した人を、多く私は見てきました。『えっ、人ってこんなに変わってしまうの!』と言う人たちです。一番の驚きは、この自分なのかも知れません。

(  “ キリスト教クリップアート ” のイラストです)

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