時代小説の「半七捕物帳」の著作で有名な岡本綺堂に、「停車場の趣味」という短文があります。
『・・・これは趣味というべきものかどうか判らないが、とにかく私は汽車に停車場というものに就いてすこぶる興味を持っている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それがすこぶるおもしろい。尊い寺は、門から知れると云うが、ある意味に於いて停車場は土地そのものの象徴と云ってよい。
そんな理屈はしばらく措いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どっち付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊におもしろいのは、一列車に、二、三人か、五、六人ぐらいしか乗り降りしないような、寂しい地方の小さい停車場である。
そういう停車場はすぐに人家のある町や村につづいていないところもある。降りても人力車(くるま)一台も無いようなところもある。停車場の建物も勿論小さい。しかもそこには案外に大きい桜や桃の木などがあって、春は一面に咲き乱れている(中略)。
停車場はその土地の象徴であると、わたしは前に云ったが、直接にはその駅長や駅員らの趣味もうかがわれる。ある駅ではその設備や風致にすこぶる注意を払っているが、・・・やはり周囲の野趣をそのまま取り入れて、あくまでも自然に作った方がおもしろい。長い汽車旅行に疲れた乗客の眼もそれに因っていかに慰められるか判らない(中略)。
汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車のひびきが遠く消えて、見送りの人々などがしずかに帰ってゆく。その寂しいような心持ちもまたわるくない・・・停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞こえるのである。』
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足で歩き、籠や馬や舟に乗って旅をしたのが、「汽笛いっせい」黒煙を吐く蒸気機関車に乗るようになったことが、劇的に旅を変えたのです。昭和25、6年頃に、八王子から中央線で新宿や東京、そこから東海道線、京都で福知山に出て山陰線へと急行「いずも」で、母の故郷の出雲市駅への汽車旅をしたことがありました。蒸気機関車が牽引していた時代です。当時の「急行いずも」の時刻は、東京 22:00発、大阪9:06 福知山11:49 鳥取14:55 出雲今市(現・出雲市)17:5で、何と19時間の旅だったのです(さらに八王子からの乗車時間も、東京駅での待ち合わせ時間もそれに加えられる長い旅でした!)。
蒸気機関車の石炭の煤の匂いが、いまだに nostalgic に記憶に残っているのが不思議です。駅を「停車場」と言う岡本綺堂の文章に、その頃を思い出させられて、懐かしさが込み上げてきます。それ以前に、甲府から新宿の、父に連れられて、同じ蒸気機関車で出たこともあります。トンネルの中も客車も、煙だらけだったのです。「鉄道唱歌」で、その八王子を出て、出雲行の旅でたどった停車場をあげてみます。
[甲府]
今は旅てふ名のみにて 都を出でゝ六時間座りて 越ゆる山と川 甲府にこそは着きにけれ
[八王子]
立川越えて多摩川や 日野に豊田や八王子 織物業で名も高く中央線の起点なり
[新宿]
千駄ヶ谷代々木新宿 中山道は前に行き 南は品川東海道 北は赤羽奥羽線
[東京(新橋)]
汽笛一声新橋 はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる月を旅路の友として
[京都]
ここは桓武のみかどより 千有余年の都の地 今も雲井の空たかく あふぐ清凉紫宸殿
[福知山]
道を返して福知山 工兵隊も見てゆかん 昔語りの大江山 北へ数里の道の程
[出雲]
雲たち出る出雲路の 斐の川上は其昔 大蛇討たれし素戔嗚の 神の武勇に隠れ無し
今市町を後にして 西に向かえば杵築町 大国主を奉りたる 出雲大社に詣でなん
飛行機で旅ができる時代だからこそ、草鞋ばきで旅した往時を思い返してみますと、古人は徒歩の旅を苦とすることなく、二本の足でこの日本列島を縦横無尽に歩いたのです。母に連れられた旅は、難儀だったのですが、養母に諭されたのでしょうか、一大決心をして、父の元に帰って、何も無かったかのようにして、子育てに努めた母がいて、私たちの今があるのです。
停車場に灯っていた裸電球が、風に揺すられて、右左、西東に動いていたことでしょう。その母親としての決心の土台になったものを、母が持っていて、自分の感情によってではなく、自分の課せられた責務に献身したのでしょう。幼い日に宿った、《神信仰》が、母の一生の《つっかい棒》だったことは確かです。
(急行「いずも」、駅の待合室、D51の機関車、山陰線の蒸気機関車です)
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