投降迫る!

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 今朝の新聞の一面に、「マリウポリ投降迫る!」という見出しがありました。なす術を知らないウクライナの現状を、ただ見ているだけで、世界は何もできないのでしょうか。核戦争の勃発や第三次大戦に拡大するのを恐れるからでしょうか、米英仏独は、何もできません。世界は殺戮が繰り返され、多くの市民が無差別の殺されているのを、ニュースで聞いているだけです。

 つらくて悲しくて、ニュースから耳を逸らせて、switch  を切ってしまいます。兄たちが生まれる前後に、同じように新聞の一面を飾り、ラジオが放送したのが、「南京陥落!」でした。それを読んだ日本人は、幟を掲げて行列で、町や村を練り歩き、神社で戦勝を感謝し、更なる戦果を上げるために祈願したのです。

 生まれる少し前のことですが、戦後史を学ぶ中で、その事実を知ったのです。他国を侵略して戦意が盛り上げられて、日本人はこぞって酔ったのでした。昨日のモスクワは、どうなのでしょうか。同じ様に、喜び狂っているのでしょうか。ウオッカやボルシチを好む両国民の間の戦争に、憎しみが増し加えられています。それを思っている日本の朝です。

 2007年だったでしょうか、華南の街で、お孫さんのお世話をしていたご家族に、食事に招待されました。彼のおばあちゃんにお会いしたのです。戦時下、日本軍は、上海に上陸し、砲撃で町々村々を攻撃し、婦女を犯し、火を放って家々を焼き落としたのです。進軍する日本の軍隊は、浙江省の村々をも焼き落としていきました。その放たれ火で、この老婦人は、幼かった少女期に火傷を負ったのです。わたしは無理を言って、その右腕の上腕部の火傷を見せてもらったことがありました。やはり正視できませんでした。それが、今まさに見てるウクライナへの「侵略戦争」でもたらされる「痕(あと)」なのです。

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 わたしは、父が間接的に作った部品を搭載した爆撃機によって、中国本土に爆弾を投下し、多くの人命を奪い、街々を破壊した過去の日本の蛮行の事実を、お詫びするために、戦争が終わって60年も経っていましたが、家内の手をとって出掛けたのです。それが主たる目的でした。残された時間、自分でもできる償いがあるとするなら、イエス・キリストの十字架の福音を語ること、十字架の福音を信じて伝道している「家の教会」のお手伝いをすることでした。

 教会の主が、その重荷をわたしにくださったのです。それ以前に、天城山荘で、「中国宣教を考える会」の大会が、戦時下で大陸伝道をされたみなさんの呼びかけで、開かれた時に、まだ三十代の初めのわたしは、なぜか参加していました。その後、いのちのことば社を始められた宣教師夫妻と一緒に、中国四都市を訪問して、漢訳聖書と聖書研究所やトラクトを届ける旅行をさせてもらいました。四十年以上も前になるでしょうか。

 その旅で訪ねた省都で、『今、日本の教会が、中国の教会にできることは何ですか?』と、何十という家の教会のお世話をされていた伝道師にお聞きしたのです。この方は、強制収容所に何度か入れられていました。『お金はいりません。わたしだけが豊かになりたくないからです。その代わり中国に来てください!』と言われたのです。

 その求めに応答して、2006年に出掛けたのです。13年の間、いることができて、家内の病気を契機に、帰国したわけです。きっと、再び行くことは叶わないと思いますが、圧政の下にある教会のためには祈れます。今まさに、ウクライナの街々で起こっていること、人々のため、そしてウクライナの教会のためにも、わたしのできることは、ささやかな祈りです。

 歴史は、その事実と直面しない者たちの手によって、繰り返されます。こんなに素晴らしく、神によって造られた人は、罪ゆえに何と愚かなのでしょうか。こんなに愛や憐れみに乏しいのです。娘たちを見る目で、ウクライナの人々のお嬢さんを見ることができない、独りよがりの指導者の現実に、人の限界を感じます。

 同じことを行った日本は、80年近く経って、難民を受け入れ、物資を支援し、ウクライナを後方から支援しています。それは、二度と再び、他国を侵略しないという決意の行動なのでしょう。戦争を知らない世代が決めて、愛を実行しているのです。

( “イラストAC ” の「日陰躑躅(ひかげつつじ)です)

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祈り

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 『神はその権力をもってとこしえに統べ治め、その目は国々を監視される。頑迷な者を、高ぶらせないでください。 (詩篇66篇7節)』

 指導者の器ではないのに、指導者が王座や支配の地位に着いてしまった国家や組織は、致命的な欠陥を持っていると言えます。そう言った指導者を生み出さざるを得なかった、事情や状況があったのですが、それが世界的な不幸の原点に違いありません。

 第一次大戦に敗れたドイツが、厳しい世界からの戦後処理に見舞われている中に、ナチスが台頭しました。悪魔的な弁舌に長けたヒットラーの演説に、ドイツ国民は酔ったのです。窮状を脱出させてくれる指導者としてしまったわけです。金日成然り、ムッソリーニ然り、スターリン然り、習近平然りです。

 無能だと評価された器が、いつの間にか支配の座に着いてしまったのは、偶然ではありません。やかましいドラや、巧みに考え抜かれた宣伝文句、人心収攬術に長けた参謀がいたからでした。マスコミも支持していました。そう言った小さな助長が、無能者を大物に作り上げてしまい、悪事を働かせてしまったのです。

 正論を語って助言する器は、戯言を言っていると排除され、粛清されたのが、それらの国の悲劇でした。日本の軍部の圧力がかかったマスコミは、真実を告げずに、軍部の打ち出す情報を活字にして、嘘に上塗りをして戦意を煽ったのです。横暴な圧力がかけられたからでした。泣く子と地頭に負けたのです。その罪は重大でしたが、世は『仕方がなかった!』というのみでした。

 戦争に加担した文筆家たちも、国民を煽りました。あの戦陣訓の校閲に携わった島崎藤村は、兵士に死を選ばせたのです。敗戦後はただ黙り込んでしまったのです。時代の空気にあがらうことのできない人や組織があって、戦争を助長してしまったと言えます。その上、戦争で莫大な儲けを得られる企業家たちがいました。味方を得た彼らは、莫大な資金を投資して戦争を推し進め、天文学的な利益を得たのです。

 虚勢で身を包んだ指導者が、マスコミの宣伝に乗せられて、横柄に振る舞う姿は吐き気がします。現代も同じです。やはり、「否」と言える人がいないからです。そう言える人は、抹殺されてしまいました。時の権力者に諂(あがら)う側近たちの、やましい目の動きと振る舞いは唾棄されるべき、憎むべきで、支持してはいけません。

 だがしかしです、不正や不義が横行して、人の命を奪おうとも、国を悲劇に陥れようと、国民が食べられなくとも、天の御座に着座される、全能者、公正な神はおられます。コロナもウクライナ戦争も、ほしいままの様に見えても、憐れみ深い神は、それらを終息させます。「神」は、「わたしはある」とおっしゃられるお方で、支配者の座にいらっしゃるからです。

 人や国家の横暴を恐れないで、ただ神がなさろうとしておられることを、神を畏れながら、じっとこの世に現実を眺めていることにします。どの国にも、祈りの手を上げる人々がいましたし、ウクライナの地にもおいでですし、ウクライナのための祈り手がいます。この祈りをお聞きになるお方は、歴史をも支配なさる神でいらっしゃるからです。

( “ Christian  clip art ” による「祈る主」です)

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