白いまんま

.

.

 1952年から、NHKにラジオ放送で、夕方6時30〜50分に、「新諸国物語」と言う、子ども向けのラジオ番組が開始されました。冒険時代活劇で、映像がないラジオ放送でしたから、想像しながら聞き入っていたのが、わたしたちの世代の子ども時代だったでしょうか。

 いくつかの series で、「紅孔雀」 とか「笛吹童子」が放送されていて、夕ご飯を食べるためではなく、これを聞くために、遊びを終えて家に帰り、ラジオの前に、ちょこんと座っていた記憶があります。後に映画化もされていました。

 その中に、「風の小六」と言う、主題歌があって、今でも歌えるのですから、どれほど集中して、聞いて、想像し、手に汗をしながら聞いていたかが判るでしょうか。

風の小六は 泣かぬぞえ
泣いたとて 泣いたとて
明日の 明日の天気が 変ろぞえ
やんれ やんれ やんれさ

風の小六は 泣かぬぞえ
泣いたとて 泣いたとて
白い 白いまんまが くえよぞえ
やんれ やんれ やんれさ

風の小六は 泣かぬぞえ
泣いたとて 泣いたとて
月が 月が四角に なろうぞえ
やんれ やんれ やんれさ

 今夕のネット記事の中に、東映フライヤーズで野球選手として活躍し、安打数で抜群の成績を残したい、張本勲氏が、《白いまんま》について言及していました。『慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した!』とです。親友の慎ちゃんは、江藤慎一氏で、チームは違っていました、気心の知り合った仲間だったのでしょう。

 この江藤氏は、もう亡くなられたのですが、兄たちの世代のプロ野球選手で、とても良い選手でした。張本勲氏は、広島市の出身で、投下された原爆の被爆者でもあります。お姉さんは被曝して亡くなっておいでです。江藤慎一氏も、貧しい中を生き抜いた人だったそうです。文の立つ人で、江藤氏は次の様な記事も寄稿していました。

.
.

わが輩はバットである―
ボール君は愉快そうに飛んでいった。若手では島野(育夫)選手の鋭いスイングにびっくり。与那嶺コーチの満足そうな顔を、わが輩はチラリと横目でみてすぐボール君に向かっていった。しかし、一つだけさみしい気持ちになったのは、練習が終わるとポイとわが輩を投げ出し、柔らかい泥がついたままケージの中にうち置かれることだ。「なんだい、打つときだけ大事そうにして」と仲間同士で怒っているうちにマネージャーの菅野さんとスコアラーの江崎さんがベンチまで運んでくれた。わが輩たちはさっそく緊急会議を開き、そういった選手にはホームランをレフトフライにすることに決めた。

 野武士の様な九州男児で、素晴らしいプロ野球に選手でしたが、70歳で亡くなられています。戦時下に生まれ、戦後を逞しく生き抜いた人です。貧しくて、新聞配達をし、アイスキャンディーを売りながら家計を助けた少年時代を過ごした人でした。懐かしく親友を語っている張本氏も、戦後、お父さんを亡くして、お母さんの手一つで育てられています。苦労した者同士の友情だったのでしょう。

今も戦火の中のウクライナでは、家が壊され、祖国を追われ、多くの人は亡くなっています。さらに食糧に窮しているのです。食べられない苦痛というものを、この21世紀にも味わっているわけです。それが戦争のゆえであって、パンが食べられない人々が、飢えを味わっているのです。ここ日本でも、パンやうどんが値上げされ、電気代やガソリン代も高騰し、何も良いことを生み出さないでいる戦争が、集結する様に願う、卯月(うづき)4月1日です。

(「巨人の星」の少年・星飛雄馬です)

.