牧者

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 『わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ1011節)』

 牧場の羊は、いつも危険にさらされています。そんな羊が必要としているのは、「牧草」と「清潔な飲み水」と「休息」です。それがあることで、安らかに生きていけるのです。これらが備えられるために不可欠なのが、「羊飼い」です。どうしても、導き手がいなければなりません。

 まだ信仰を持ち始めた頃に、「羊飼いが見た詩篇23篇(W・フィリップ・ケラー著/いのちのことば社刊)」を読みました。著者のケラーは、実際に羊飼いをしたことがあり、何を羊たちが必要とされているか、その必要をどう満たすかについて知っていて、その本を記したのです。

 ここに《良い牧者》がいます。羊の群れのために、その一匹一匹のために、自分の命を投げ出した牧者の存在を、著者は明らかにしたのです。羊とは、彷徨える私たち人のことです。真実な羊飼いがいないで、狼が虎視眈々と襲おうとしていますし、粗悪で劣悪で不健康な草を摂取し、汚れて腐った水を飲み、安らかに眠るとこなく生きていた私は、この「牧者」と、青年期の初期に、幸いにも出会ったのです。

 その上、正しく判断することができず、邪悪な道に誘われ、滅ぶばかりの状況下で、拾われたのです。羊が頑迷であるのと同じで、わたしも、無力なのに自分勝手に生きて、結局は迷子になって、正しい道に戻れずに、深みに沈み込もうとした時に、首根っこを掴まれて、つまみ上げられたのです。この忠実な牧者なしに、わたしは生きてはいけないのです。

 動物の中で、羊は一番愚かだと言われます。わたしも愚かで、いつも混乱していました。主なる神、イエスさまが「牧者」となってくださってから、その羊飼いの手にある「鞭と杖」を使い分けて、叱責と助けと導きをしてくださって、今日まで生きてこられたに違いありません。

 教会時代の始まりに、「使徒」として召され、その職責を果たしたパウロにとっても、イエス・キリストは、「牧者」でした。そして彼自身も、諸教会を導いた牧者でした。テサロニケの教会に書き送った手紙に、どの様に、教会を導いたかが記されています。

 『それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(1テサロニケ人278節)』

 わたしは、パウロが、どんな人、指導者、牧者であったかを、この箇所で知りました。「母が子どもたちを養い育てるように」と、「優しさ」で接したのです。漢訳聖書では、『如同母亲乳养自己的孩子」、お母さんが乳児を、乳房を含ませて養う様にして養い、振る舞ったと記しています。

 それは、「救い主」でいらっしゃるイエスさま、また「助け主」でいらっしゃる聖霊なる神さまと同じです。私たちへの接し方は優しいのです。わたしがバスケット・ボールをしていた中学の時に、鉄拳を使って、私たちを教えると言って、先輩たちが制裁したのとは、全く違うのです。

 同志社を興した新島襄に、「自責の杖事件」がありました。当時の英学校の二年生が、集団で授業の boycott(ボイコット)をしたのです。それは、「校則違反」で、『罰せよ!』という声が上がりました。出張から帰った新島は、教壇に立って、『今回の集団欠席は、私の不徳、不行き届きの結果起こったことであり責任は自分にある!』と言って、持っていた杖で自分の左手を叩き始め、杖が3つに折れるほどでした。

 これが、明治基督者の教師の姿でした。イエスさまが、信じる者たちの罪の身代わりとなって、十字架に死なれたのに倣って、新島は、自らに罰を課したのです。そんな新島に感銘を覚えたわたしは、同志社で学びたかったのですが、道は開かれませんでした。

 ここに、「良い牧者」がおられます。滅ぶばかりの瀕死のわたしを、永遠のいのちに救ってくれたお方なのです。義を愛し、真理を求め、隣人を愛して生きる生き方を教えられ、今日も生きています。

(“ Christian  clip art ” の「羊飼い」です)

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