『 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(詩篇41篇13節)』
今、〈震度5〉の強い地震があって、『ドスン!』と音がして、部屋が揺れました。コロナにウクライナ侵攻、そして地震、地上に様々なことが、賑々しく起こっています。一番怖いのも優しいのも「人」でしょうか。
いつも思わされるのは、何が起ころうとも、『恐るな!』という、わたしの神、主がおっしゃる安心への促しのことばです。
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『正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却って破れ、終いに彼の制を受くるにに至らん。』
これは、西郷隆盛の残した「遺訓」の中にある一節です。ロシアのウクライナ侵攻によって、国際情勢が一段と危うくなってきているのが感じられます。どこの国もおちおちとしておられない昨今でありますが、西郷隆盛は、黒船の来航という一大事件があって、開国を迫られる中で、諸外国の言いなりにならずに、対等に関わるべきだと語ったのです。
明治維新政府によって、廃刀令や断髪令が公布され、武士団の解体を急いだのです。職を失った士族は、急激に立場を失う事態に直面し、不満を募らせていきました。薩・長・土(薩摩、長州、土佐)によってなった維新政府は、旧幕の朝敵には、ことのほか何の配慮もしなかったのですから、不満噴出は当然でした。まさに内憂外患の日本でした。
国内に社会の変化、政治的な変革が起こると、その常套的な対策は、人々の目を外に外らせようとするのです。それで不満を抑え込もうとします。維新政府は、欧米列強からの外圧を覚えながら、国を富ませて、軍事力を得るために、富国強兵政策を取りました。国威を高めるために、岩倉具視や木戸孝允らによって、朝鮮侵略を目論んだのです。「大国主義」が、あの「征韓論」でした。
そんな中で、日本の封建社会に大変革をもたらせた立役者であった、薩摩の西郷隆盛は、表舞台に立つことを嫌います。その征韓論ですが、この西郷が、そう言い出したかの様な捉え方をする人が多くいます。豊臣秀吉が、朝鮮出兵をするのですが、維新政府も同じでした。
そのきっかけとなったのが、朝鮮半島の釜山にあった、「草梁倭館(日朝交易の中心で、長崎に出島の朝鮮半島版だった様です)」の扉に、日本を侮辱する言葉が書かれた文書が貼られたことだったのです。明治初年のことでした。これに怒った日本は、〈居留民保護〉の名目で出兵して征韓を考えます。
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板垣退助は、すぐに実行を提案しますが、西郷隆盛は、国書を持たせて使節を派遣して、ことの真相を確かめるのが先決だと言いました。穏健な対処法だったと言えます。その代表使節に、西郷自らがなろうと言うのです。結局、その提案は退けられ、西郷は辞職し、鹿児島に帰ってしまいます。
そして西南戦争が勃発していきます。その戦いで、西郷は倒れてしまうのです。「五百年に一人生まれる逸材」と言われた人物を、明治維新政府も、日本も失うのです。長州藩出身の維新政府の立役者たちの別荘が、栃木県北部の那須の地に、いくつも残され、記念館となっています。
西郷隆盛は、明治二年に、維新政府に出仕する様に要請されるのですが、その様に願う薩摩藩士たちに次のように語っています。
『お前たちは、私に向かって朝廷の役人になれと言って、私を敬っている風であるが、今の朝廷に役人が何をしてると思うのか。多くのものは月給を貪り、大名屋敷に住んで、何一つまともな仕事をしていない。悪く言えば泥棒なのだ。お前たちは同伴のものに、泥棒の仲間になれと言ってるのと同じなのだ。それは私を敬うどころか、いやしめることになるのだ。』と。
私の弟の書棚に、西郷隆盛の著した書や、彼に関する著書が何冊もあったのを見たことがあります。あまりにも有名な彼直筆の書に、「敬天愛人」があります。一説によると、西郷どんは「聖書」を読んだ人だと言います。
⭐︎注記 斃る(たおる) 全かる(まったかる) 軽侮(けいぶ) 終(しまい)
(西郷隆盛直筆の「敬天愛人」、「桜島」です)
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