友、研ぎ手として

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 箴言に、「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる(27章17節)」とあります。エッサイの8番目の子として生まれたダビデは、まさか自分が神に選ばれた民の王となる事も、救い主の家系となる事も、そのキリストであるイエスさまご自身が「ダビデの子」と認められた事も、まったく考えた事などありませんでした。

 ある人の人生は、自分が考え願ったように展開し、思いのままに生きられるかも知れません。みなさんはいかがでしょうか。『したい!』と願ったような仕事についておいででしょうか。結婚も、『この人』と願った通りだったでしょうか。老後だって、『あんな風に生きていこう!』と計画しておいででしょうか。ところが私たちの現実は、ほとんどの場合、願った事とはかなりの差のある所にあります。その差を受け入れ認めて、私たちは今日まで生きて来ているわけです

 ダビデも、父の羊を分けてもらって、一家を成し、平凡に牧羊業を生業として、一生涯をベツレヘムの周辺で生きて行く以外の可能性を、考える事がなど出来なかった事でしょう。そんな彼が、牧場から連れて来られて、預言者サムエルの前に立ちますと、万物の創造者でいらっしゃる神である主が、「この者がそれだ(12節)」と言われたのです。としますと、主には、ダビデの人生に特別で明確な計画をお持ちであったことになります。

 エレミヤ書に、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ~主のみ告げ~それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ(29章11節)」とあります。これはバビロンに捕囚として引かれて行った民の残りの者たちへの主のことばです。主なる神さまは、一人の人の人生だけではなく、民族や国家にも計画をお持ちなのです。この「計画」とは、目的や意味のことであります。

 ダビデの71年余りの生涯にも、主は「計画」をお持ちだったのです。私はこれまでの年月、1つの願いを持って生きてまいりました。牧師として、わたしを任職するために、アメリカから Thomas さんが来てくれたのです。彼は、『私の牧会上の節目となったのは、一人の忠実な若い兄弟が救われてきて、彼と彼の家族が私と共に立ち、私を支えてくれた事だった!』と分かち合ってくれたのです。

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 その日から、彼の言葉が私の心の中に1つの願いを生み出し、その願いを持ち続けて今日まで生きてまいりました。自分の弱さを知っても祈ってくれる友、他者の中傷や非難の言葉に同調しないで、共に立ってくれる友、互いに祈り合い、忠告し合い、赦し合える、“ No ! “ と言ってくれる《信仰の友》の出現を期待したのです。教会の外にではなく中にでした。

 私は、一時期、ダビデを語り続けたことがありました。彼もまた一人の人としての「弱さ」を持っていることを知って、大変に安心させられたのです。もちろん私が罪を犯す事の言い訳のためではありませんでした。人の弱さや罪性が暴露されるのは、私たちの人生の計画書をお持ちの神さまが、私たちの安全と保護のためになさる事なのです。その同じ罪を犯し続けることのないためにです。決して私たちを断ち滅ぼそうとされているのではありません。

 ダビデは、あのバテ・シェバとの破廉恥な罪の後、どのように生きたのでしょうか。それをうかがい知る事の出来る記事が、列王記第一にあります。「・・彼女を知ろうしなかった(1列王1章4節)」のです。この娘は非常に美しかったと記されてあります。彼が老人であったから卓越し、達見していたからだけではなかったに違いありません。彼は、意思して、女に触れようとしなかったのです。赦しの確信を持っていたからです。

 「人はその友によってとがれる」は、ヘブル語原典では、「・・友の〈反対・怒り・顔つき・支持・賛成・受け入れetc. )によってとがれる」とあるそうです。神さまはご自身の計画の実現のために、神さまの御心に適った者とするために、私たちを放っておかれません。生まれながらの感情や習慣のままに生きることから連れ出して、神さま好みの人造りをなさるためにです。そのために「友」を用いられます。一人の人を取り扱って、神の御心に適った人とするために「研ぐ」のです。

 そのような使命を担って私たちのそばに送られる人を「友」と、今朝のテキストは言うのではないでしょうか。きっとみなさんにも、多くの友人がおいででしょうね。神さまに遣わされた人が、罪を犯しているなら、あなたの言葉や顔つきや反抗的な態度で、彼を傷つけて、研ぎ上げて上げられるでしょうか。

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 それとも盲目的に友人のままで、彼の過ちを黙認してしまうでしょうか。聖書に、「愚かな者の友となる者は害を受ける(箴言13章20節)」とあります。害を受けないために、『知恵のある者と共に歩みなさい!』と言うのです。そうすれば、「知恵を得る」のです。

 ダビデにとって、ヨナタンもナタンもフシャイもイタイもバルジライも彼の友でした。彼らはみなダビデの<研ぎ手>でした。とくにナタンの言葉は、鋭く彼に迫りました。ダビデの犯した罪を認めさせ告白させ悔い改めさせているのです。またヨナタンからの「女にも勝る愛」は、親切で温かな言葉と応対とで、絶望や悲観と言ったマイナスな思いを、ダビデから削り落として、生き延びる明日への希望、エレミヤの言葉によりますと「将来と希望」を与えることができたのです。

 もう一人、ダビデの近くに、神さまが人を置かれました。母違いの姉ツエルヤの子ヨアブです。この二人は、オジ甥にあたります。 彼は3人兄弟の次男でした。この3兄弟をダビデは、「私にとっては手ごわすぎる」と言いました。それは、反抗的な問題児、「トラブル・メーカー」と言う意味なのです。多分、ヨアブはダビデの近くで育ったようで、年令も近かったのです。また互いの背景を熟知していて、弱さも強さも知り抜いていた間柄だったと思われます。

 そんな問題児で心配の種だったヨアブは、ダビデが死ぬまで終生離れないで、まったく反逆心を持たなかったのです。軍事的には有能な戦士として、ダビデよりも優れていただろうと言われてます。ただ政治的な手腕や才覚についてはダビデに劣っていたのですが、決定的な違いは、神からの「祝福」のあるなしでした。

 ヨアブについて次のような記事があります。「この知らせがヨアブところに伝わると~ヨアブはアドニヤにはついたが、アブシャロムにはつかなかった~(列王記第一2章28節)」、ダビデの軍の総指揮官だった彼は、ダビデの三男のアブシャロムが、父に反逆して謀反を起こしたとき、アブシャロムに加担しなかったと言うのです。もし彼がアブシャロムに加担していたら、ダビデは殺されて滅んでいた事でしょう。でも彼は落ち目のダビデを選び、日の昇る勢いのアブシャロムを切って捨てたのです。

 この記事を読むときに、どうしても思い出すのが、イエスさまを裏切ったイスカリオテ・ユダです。エルサレムの宗教界と政治界から律法の違反者で神を汚す者として大反対を受けたとき、ユダは、イエスさまを捨てたのです。そして銀貨30枚で売ってしまいます。イエスさまについて行けば、仲間として断罪されかねなかったからです。

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 日本中が、天皇を選び、イエスを捨てた時期がありました。教会は天皇かイエスの二者択一の岐路に立たされたのです。日本人であり続けるか、イエスさまの共同体にとどまるかを迫られます。太平洋戦争の渦中の事でした。多くの教会が、天皇皇后の写真を講壇の上に掲げてしまいました。教団の指導者たちは、伊勢神宮に、戦勝祈願のために参拝もしてしまいました。多くの教会は天皇を選んでしまったわけです。

 岐阜県下で伝道し、現在もいくつかの教会を持つ「美濃ミッション」というグループがあります。戦時下のこと、その教会の小学生が、修学旅行に伊勢神宮詣でをする事になっていたのですが、それを拒否して参加しなかったのです。教会の教えに従って、イエスを選んだわけです。『非国民!』との轟々の非難が湧き上がりました。戦争が終った時、現人神と祀り上げられた天皇は、「人間宣言」をしました。<恐れ>は誰にもあります。みんなの中からの孤立は命取りです。でもあの小学生たちは、みことばに従ったのです。小学生が、そのような信仰の立場を、教会と家庭とで学び継承していた事に、実に驚かされます。

 さて時を読む人は、あのアヒトヘルのようにアブシャロムを選ぶのですが、ヨアブは、この大きな試練に勝ったのです。そう言った人物をダビデは近くに持っていたのです。ところがヨアブは、アブシャロムよりもはるかに小さな人物のアドニヤに加担してしまいます。アドニヤは、ダビデの子でしたが、ソロモンが王となることに反対して立ったのです。そんな人物に、このヨアブはついてしまったわけです。大きな試練に勝った彼が、小さな試練に負けてしまったことになります。

 そんなヨアブを、ダビデは嫌わないで、「研ぎ手」としてそばに置き続けたのです。でもソロモンが王位を継承する時には、息子には不用な人物だと決めていたのです。それでヨアブを、「・・安らかによみに下らせてはならない(2王2章6節)」と言い含めたのです。みなさんにも、そんな「研ぎ手」がおいでなのでしょう。

(“ Christian  clip art “ のイラストです)

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雷様に夏花

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 昨夜半に「雷様(らいさま)」が大荒れしていたのですが、嵐の前に撮った、隣家の庭に咲いた花、薔薇の一種でしょうか、栃木県(茨城も福島も)では、雷が多く、これに「様」を付けて、「らいさま」と呼びます。

 『熱い夏の日。急に空が暗くなって、冷たい風が吹いてきたら、どこからともなくゴロゴロゴロゴロ。「ほら。らいさまがくっから、へそ隠せ」ってばあちゃんの言葉を合図に、ゴロゴロゴロピカーンって登場するんだ。そう、おいらの名前は「雷様(らいさま)」さ。かみなりさまじゃないよ、らいさま。ここいらではそう呼ばれてるんだ。
 
 栃木県は、日本でも有数の雷の多い県。雷銀座なんて呼ばれることもあるんだ。宇都宮市の年間の雷日数は、関東で第1位。夏季に限ると、全国第1位の多さなんだ。その理由は地形にあると言われていて、北部に2,000m級の山岳があって、南東方向に山の斜面が開いているから、日射を強く受ける。そして夏季は南よりの風が吹きやすいから、強い上昇気流がおこっておいらが発生するのさ。
 
 昔からとっても身近な存在だったからこそ、らいさまなんて愛称で呼ばれていたのさ。かみなりさまより、ちょっとかわいくて、かっこいいだろ?そうそう。もしおいらが鳴ったら、へそを隠すように頭を低くして、安全な建物にすぐ避難するんだぜ。そういう意味で、ばあちゃんたちは「へそ隠せ」って言ってたんだ。ばあちゃんの知恵ってすごいだろ。おいらが来たら、ちゃんとへそ隠して逃げるんだぞ!

 宇都宮市は、「雷都(らいと)」と雷を愛称に取り込み、地元産のお菓子の名前などに使用している。(「栃木の百様」から)』

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 轟く雷鳴、煌めく雷光、車軸を流すようなな雷雨、大陸の雷を思い出し、〈雷好き〉のわたしは、ここ栃木に住んで満足なのです。それにしても、実に gorgeous な咲っぷりなのです。花のいのちも、人のいのちも、『短くて!』ですが、咲いても咲かなくても、先っぷりが良くても悪くても、短い一生、精一杯生きたいものです。
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孫の初恋に 

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 1897年(明治30年)に、「若菜集」と言う詩集が発刊されました。島崎藤村の書いたものです。その詩集に、「初恋」と言う詩が所収されています。

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

 先日、次女から facetime がありました。子どもたちは、それぞれに用があって出掛けており、婿殿も仕事中、彼女は暇をしていたのか、親元に近況を伝えてきたのです。

 最近の子どもたちや友人、私たちの知人のことなどを話し始めて、上の息子の話になりました。その三日ほど前に、Coast  にいる、愛妻を亡くしたお父さんを、家族で訪ねた時の写真が、message と共に送られてきていたのです。その写真に、孫たちの間に、一人のお嬢さんが写っていました。私たちにとっては外孫、彼の友だちだそうで、名前も書いてありました。

 しばらく前に、他の州から越して来られ、同じ教会のメンバーで、行き来があるのだそうです。そのお嬢さんが『好きだ!』と、親に打ち明けたのだそうです。それを知って、きっと母親としては〈複雑〉な思いに揺れたのでしょう、なんとなく私たちに知らせるための連絡でした。

 娘が結婚してから、間も無く日本にやって来て、長野県下の高校で、婿殿が英語教師をしていたのです。それからしばらくして妊娠した娘は、胎児のエコー写真を、私たちの家を訪ねた時に、母親になる喜びで見せてくれたのです。しばらくして、彼らの家を家内と二人で訪ねた日は、市立病院の診察日だったのです。しばらくして帰ってたのですが、二人とも車から降りて来ませんでした。

 実は、胎児が亡くなっていて、それを知らせるのを躊躇していたか、悲しみで、私たちの前に立てなかったのか、辛い経験があったわけです。私たちは、彼らを慰めて、別れを告げて、甲府の家に帰ったのです。それからしばらくして、赤ちゃんができたことを知らせてきました。

 その赤ちゃんが、生まれた時、牧師会が熊本であって、家内と私は、二人で出掛けていました。その訪問先の友人宅に、産後直後に、とても嬉しそうに、『男の子が生まれたの!』と知れせてくれた、その子の《初恋》を、今朝知らせてきたわけです。お母さんには、そんな経緯で生まれた子が、初恋の相手に奪われるような思いがあるのでしょうか。心の思いが揺れるのでしょうか。

 そんなこと言ったら、ゲンコツをもらいそうで、わたしは言えなかったのに、孫は、両親に、そのことを告白したのです。秘密にしないで、心の中に芽生えた恋心を知らせたのです。娘曰くそれは《初恋宣言》でした。ほかの子に、そのお嬢さんに approach をかけられる前に、はっきりと表明をしたわけだと言うのです。

 二人の様子を、これから安心して眺めていけるのは、素晴らしいではないでしょうか。多くの若者たちが秘密裏に、コソコソとするのですが、孫ベーは、隠し立てをしなかったわけです。思春期の大切な感情の発露を、愛でて祝福しようと決心したのです。

 相手を大切にして、互いが励ましあったり、学びあって、その恋が、どのように導かれていくかを、見守ってくれる双方の両親と、そして何よりも、そのような感情を、与えてくださった創造の神さまの前に表明し、心の中に置いたと言うことは、感謝だなと思っています。

 乱雑で密やかな恋がもてはされて、結局は、傷つけたり傷ついてしまう若者の多い現代、幼い恋愛を大切にしてあげるのが、太平洋を隔てた此方のジイジとバアバのして上げられることなのでしょう。近所の女の子、クラスメート、年上の先輩など、気の多い自分が好きだった女(ひと)を思い出して、そっと家内を見てしまいました。

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瓦礫の中のショパン

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 長期戦になると伝えられている「ウクライナ戦争」に心痛めているわたしは、以前観た「戦場のピアニスト」と言う映画を思い出しています。この映画の圧巻は、爆撃され倒壊したガレキの中から、ショパンの名曲が聞こえてくる場面です。廃墟のガレキの中に、まるで、「いのち」が注入されるかのように、吸い込まれて行くのです。

 戦争で荒廃したのは街だけではなく、人の心でした。ドイツ軍将校の前で、ピアノが弾かれるのですが、渇き切ったナチス・ドイツの将校の心の中にも、流れ込んで行きます。戦場でも、人間の営みの高貴さが残され、音楽の素晴らしさと言うよりは、「高尚な世界」が乱世の中にも残されていたのだと言うような、強烈な印象を受けたのです。

 その映画を観た直後に、近くの町の図書館で、講演会があり、時間がありましたので、家内と一緒に聴きに行ってみました。演者は、当時、拓殖大学の客員教授で、「日本史」を研究されているスピルマン氏で、この映画の主人公の実の息子さんだったのです。彼は、1951年の、第二次世界大戦後に生まれた方で、父39才の子だと言っておられました。 

 その講演では、ユダヤ人の民族的背景を持っている彼が、自分の父を客観的な目で語っておられました。ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)で、父や母や親族や友人を失った父スピルマンは、生き残ったことの罪責感に苦しんで戦後を生きたそうです。父から戦時下の体験をまったく聞いたことのなかった彼は、父が、1945年に著わした「戦場のピアニスト」という本を、12才の時に見つけて読むのです。それで父の体験を初めて知ります。彼がまったく父の過去を知らなかったのは、話してくれる親族が死んでいなかったからでもありました。

 父スピルマンは、戦後を忙しく生きることで、その体験を思い出さないようにしていたそうです。そのような父親でしたが、年をとるにつれ、忙しくなくなるとポツリポツリと、長男である彼に体験談を語ったのだそうです。その本が再び日の目を見たのは、ドイツ語訳で、1987年に再版されてからでした。そうしますと話題をさらって、英訳や仏訳が刊行され、すぐに完売してしまいます。映画監督のポランスキーの手で「映画化」が決まりました。その翌年の2000年7月5日に、父スピルマンは召されて逝きます。

 ご自分の父を、『彼は真面目だった!』と言っていました。1つは音楽に関してです。音楽を食べるための道具にしなかったのだそうです。どのようなジャンルの音楽にも関心を向けたそうです。ジャズも好きだったそうです。そして極限の中で、自分が発狂することもなく、自殺からも免れることが出来たのは「音楽」だったそうです。

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 もう1つは「人種問題」でした。『人を個人として見るように!』と、息子の彼に言い続けたそうです。『どの民族にも、よい人も悪い人もいること。民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない!』そういった信念の人だったようです。

 でもユダヤ人の血と言うのでしょうか、アブラハムの末裔といったら言いのでしょうか、この父スピルマンの信念や生き方は、やはりユダヤ的なのではないかと感じられました。映画の中に出て来た、あのドイツ人将校は、カトリックの信者で、ドイツの敗色が強くなったので、助命のために父スピルマンに親切にしたのではなく、いつも常に、人道的に親切な人だったようです。あの時のヒーローは、父ではなく、父を命がけで助けたワルシャワの友人たち、そしてあのドイツ人将校だったと言っていました。

 一時間半ほどの講演でしたが、聖書の民の1つの足跡に触れることが出来、とても感謝なひと時でした。この父あってこの息子でした。どのような名の下に、どのような理由の下になされても、『戦争反対!』を叫びたい、間も無く六月を迎えようとしてる今です。

 

(破壊前のウクライナの首都・キーウです)

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ふるさとに桃、羊羹も

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 作詞が西沢爽、作曲が遠藤実で、早生まれの同学年の梶光夫が歌った「青春の城下町」が、1964年に発表されました。

1 砂山に さわぐ潮風
  かつお舟 はいる浜辺の
  夕焼けが 海をいろどる
  きみの知らない ぼくのふるさと
  ふるさとの はなしをしよう

2 鳴る花火 ならぶ夜店に
  縁日の まちのともしび
  下町の 夜が匂うよ
  きみが生まれた きみのふるさと
  ふるさとの はなしをしよう

3 今頃は 丘の畑に
  桃の実が 赤くなるころ
  遠い日の 夢の数々
  ぼくは知りたい きみのふるさと
  ふるさとの はなしをしよう

 もう、思いっ切り葡萄や桃を食べさせてもらった記憶があり、お腹を壊すほどだったのです。山からの索道の終点に、作業場や倉庫があって、大きなモーターで、山奥から材木を運んできていたのです。戦時中は、石英の鉱石の集積場があって、そこからトラックで、旧国鉄の駅に運んでいたのです。

 そこに家があって、少し降った所に、山道を通って、有名な神社に通じるバス路線の停留所があって、小さなお店がありました。父に連れ出されたわたしは、買ってもらった水蜜桃だったでしょうか、それをお腹いっぱい食べさせてもらったのです。父は、四人の子を、一人一人個人的に連れ出していたようです。お腹を壊すほど食べさせた父を、母が厳しく叱っていたのを覚えています。

 台湾人の奥さんと、アメリカ人のご主人が、華南の街の彼らの家に招いてくださって、食事をご馳走していただき、交わりをしていたら、『これをもらったのですが、私たちが食べるよりは、あなたたちが食べるのが一番ふさわしそうなので、差し上げます!』と言って、お土産にいただいたのが、「虎屋の羊羹」でした。

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 父に食べさせてもらったのも、この老舗の羊羹でした。味覚と言うのは、「懐旧の念」と深く関わっていそうです。自分の「ふるさと」にも、味覚のお思い出がたくさんあります。焼いた渓流魚の山女、木通(あけび)、母の故郷から送られてきた笹餅、それらを食べた、あの山奥が、私の「ふるさと」なのでしょう。

 「母の日」の前に、息子夫婦が、やって来て、差し入れしてくれたのとは別便で、家内には「カラー」の花鉢が送られてき、わたしにも、羊羹が別便で届いたのです。もう大事にしまってある一口サイズを、一週間ぶりに出して、狭山茶を淹れて、先ほど食べたのです。口に馴染んだ虎屋の羊羹の味で、その山奥のたたずまいと、生活、兄たちや弟、色も匂いも、いっぺんに思い出してしまったのです。

 砂山などないし、城下町も夜店もない山奥にも、懐かしい風景の記憶があります。兄たちを追っかけ、弟と遊んだのが、昨日のように思い出されます。兄たちは八十代、弟も後期高齢者に、そして私たちも。守られ、支えられ、老境の日を、それぞれに生かされていて感謝でいっぱいです。

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Aloha.

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 ワイキキの近くに、大きな公園があります。ハワイに行きました時に、そこでハワイ先住民の集いがあって、招かれて参加したことがありました。そこで、記念式があり、家内の姪の友人で、ハワイ大学の教授が表彰されていたのです。

 何が評価され、表彰されたのかと言いますと、白人社会になってきたハワイ社会で、先住民は少数派になって、蔑ろにされる傾向が強くなる中で、この方は、弱者で少数者たちの味方になって、様々な活動をされてきたそうです。

 ハワイ州は、136万人の人口のうち、50万人ほどが先住民で、現在では、3分の1近くになっているのです。北海道の先住民のアイヌや、アメリカ合衆国の先住民のインディアンと同じ様な、民族の悲哀を感じている現状の様です。

 かつてはカメハメハ大王の支配する「ハワイ王国」でした。この王国の主要産業が、<サトウキビ栽培>で、その労動力を、中国や日本に求め、明治期の日本から、このサトウキビ畑で働くために、多くの人が農業移民をしたのです。

 ハワイは王国から共和国に移行したのが、1894年でした。1898年には、アメリカ合衆国の「準州」になり、1959年には、合衆国の50番目の州になっています。

 家内の姉を訪ねて参加した集いには、「ハワイ王国」の国旗も掲げられていました。どうもアメリカへのハワイ併合には、違法な点があったそうで、アメリカ合衆国上下院の両議院では、その非を認めています。因みに1984年には、日系人のジョージ・アリヨシが州知事に選任されています。

 日曜日に集った礼拝にも、日系五代目のご婦人がおいででした。農奴の様な苦労をした方たちの子孫が、ハワイの社会の様々な分野で活躍をされておいでなのです。また、記念式で表彰された方は、中華系移民の子孫で、福建省の出身の祖先を持っておられると言っていました。片言の日本語もしゃべることができました。

 本来なら、友人たちが、この方の表彰を祝してお祝い会をすべきなのに、彼が主催の「食事会」を、ホノルルのダウンタウンの中華街のレストランで開かれたのです。そのテーブルを、私たちも一緒に囲むことができました。久しぶりの中華料理を美味しく頂戴した次第です。暮れなずむホノルルの下町は、結構静かだったのが不思議な感じでした。中国で、私たちに住む街の、ショッピングモールの人の波を見続けてきたからでしょうか、静けさと落ち着きに驚きました。

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Last King Kamehameha Statue

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 港の方を見てたら、子どもの頃に流行っていた歌を思い出してしまったのです。昭和23年に、石本美由紀の作詞、江口夜詩の作曲、岡晴夫の歌の「憧れのハワイ航路 」です。

晴れた空 そよぐ風
港出船の ドラの音愉し
別れテープを 笑顔で切れば
希望はてない 遥かな潮路
ああ 憧れの ハワイ航路

波の背を バラ色に
染めて真赤な 夕陽が沈む
1人デッキで ウクレレ弾けば
歌もなつかし あのアロハ・オエ
ああ 憧れの ハワイ航路

とこ夏の 黄金月
夜のキャビンの 小窓を照らす
夢も通うよ あのホノルルの
椰子の並木路 ホワイトホテル
ああ 憧れの ハワイ航路r

 あの頃は、船でハワイやアメリカ本土に出かけていたのですから、結構長い旅をしていたことになりますね。

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感謝

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 主の働きに献身した若いテモテに、パウロが、真心から情愛を込めて書き送った手紙が、聖書の中に2通おさめられています。それを読みまして感じるのは、この二人の間には、実に麗しい関係が育まれていたことであります。そのパウロが、親のように勧めている言葉の1つに、「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが・・(1テモテ4章8節)」と言う言葉があります。テモテの健康を願ってのことでしょうか。

 この言葉の「いくらかは」と言うのは、「少しの間」と言う意味をもっている言葉なのだそうです。キングジェームス訳ですと「little」とあります。私に聖書の読み方を教えてくださった宣教師さんは、『ここは、《この地上にある間は有益です》、との意味でしょうか!』と言っておられました。としますと私たちが肉体を鍛錬することは、意味のないことではないことになります。

 初代教会の時代、ギリシャにはオリンピックがあって、走ったりボクシングをしたりレスリングもあり、パウロは「賞を受けられるように走りなさい(1コリ9章24節)」と、霊的に当てはめています。

 アテネ・オリンピック出場をかけた女子バレーの予選の試合が行われていた頃、それをテレビに誘われて観戦していました。その時、日本チームの練習風景が、中継の合間にビデオで流されていたのです。監督さんが、19才の高校を出たての選手たちに、『バカヤロー!』、『出て行け!』、『お前なんか使わない!』と罵声を飛ばしていました。ああ言った言葉に耐えないと試合に出られない、勝てない、大会に出場できないのです。

 国の名誉を賭けた、熾烈な競争に勝つには、精神を鍛えなければならないのでしょう。『なにくそ!』という跳ね返す心がないとだめなんです。相手に勝つ前に自分に勝たなければならないし、チーム・メイトにも勝たなければならないのです。根性がなければ駄目なんです。そのためには、暴言も暴力も〈必要悪〉なのだ、そういった風潮がみられたのです。

 60数年前に、中学・高校の運動部にいた私は、その様子を見ていて、『ちっとも変わっていないな!』と感じること仕切りでした。その五十代の監督さんの選手時代は、われわれと同じ「しごき」の時代だったのです。私たち籠球部や送球部の練習内容は、ものすごいものがありました。インターハイや国体の優勝校で、その決勝戦への常連校でしたから、その名誉を維持するためには、常識的な練習では駄目だと言うのが結論でした。

 予科練帰りの旧日本軍の規律で訓練された先輩たちにしごかれたと言う、卒業生のおじさんたち、そのおじさんたちに鍛えられたOBが、入れ替わり立ち代わりやって来るわけです。ビンタは当然でした。殴られると、今度は下級生にビンタで焼きを入れるといった悪循環があったのです。

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 あの監督さんは、暴力はしていなかったのですが、あの言葉は心に痛かったでしょうね。社会全体が軟らかいソフトムードで、そこで育って来た若者たちの中で、一流選手のいる、スポーツ界は変わっていないんです。何時でしたか、力士のAが、相撲の稽古をつけている様を、テレビで観ていました。竹刀(しない)で焼きを入れていました。その相手は、彼よりも年令は上で、大学出の人気力士でした。この世界は年令も学歴も関係ないのですね。番付が上なら天下なのです。

 《悲壮感》、そう言ったものがないとスポーツの世界では、出られない、勝てない、大会に出場できないのです。まさに日本型のスポーツの世界の伝統であります。

 いつでしたか、アルカイダの訓練の様子が放映されていました。またアメリカ海兵隊やイギリス軍の新兵訓練も放映されていたことがあります。戦場の最前線に遣わされる兵士には、非人道的な訓練が、世界中、どこでも行われているのです。そこにあったのは、私が若い頃にやっていた、松涛館流空手の稽古の中に感じた「殺意」です。躊躇のない一撃必殺が要求されるのです。逡巡していたら、殺されてしまうからです。 

 あの監督に罵声を飛ばされていた選手が、試合に出してもらって活躍していました。スパイクを決めたときに見せたのは、実に素晴らしい笑顔でした。『監督さんの愛情からの言葉なんだ!』と思って感謝しているのでしょうか。

 でも、『勝たなくってもいいんだ!』、そういった気持ちで、スポーツを楽しめたら素晴らしいでしょうね。孫たちは、硬軟織り交ぜて、野球や陸上競技やテニスをやりながら、ピアノやチェロも練習して、楽しんでいるのを、ビデオを送って見せてくれます。そうしたら、肉体の鍛錬にも有効なのだと言う、パウロの願いが、実現されるのですが。

 欠点だらけの私を訓練してくださった宣教師さんは、私を、殴ったり、威嚇したり、蔑んだり、罵倒したりしませんでした。その代わりに祈ってくれたのです。感謝!
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にふぇーでーびる

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「栄冠は君に輝く」

雲は湧(わ)き 光あふれて
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
まなじりは 歓呼に答え
いさぎよし 微笑(ほほえ)む希望
ああ 栄冠は 君に輝く

風を打ち 大地を蹴(け)りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打に賭(か)けて
青春の 讃歌を綴(つづ)
ああ 栄冠は 君に輝く

空を切る 球の命に
通うもの 美しく匂える健康
若人よ いざ
緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす
感激を 目蓋(まぶた)に描け
ああ 栄冠は 君に輝く(加賀大介作詞・古関裕而作曲)

 1958年、昭和33年の夏、甲子園球場で行われた第40回全国高等学校野球選手権大会で優勝したのは、福岡県代表の柳井商業高校でした。この大会の出場校で注目されたのは、戦後初めて沖縄代表として首里高校が出場したことでした。

 その年は、47都道府県から、一校ずつが出場した記念大会だったのです。第一回戦で、福井県代表の敦賀高校と対戦し、惜しくも1対3のスコアーで敗れてしまいました。甲子園のグラウンドの土をビニールに入れて、沖縄に持ち帰ったのですが、「外国の土」だと言う植物検疫上の理由で、悔しくも海に捨てさせられてしまったのです。

 この大会では、東京都の代表となったのが、明治高校でした。すぐ上の兄も、甲子園を目指した高校球児だったのです。今では、東京都からは東西二校が選出されていますが、厳しいトーナメント戦の結果、明治大学の系列校の明治高校の一校だけの出場でした。

 同じ学校の敷地のグラウンドでは、野球やハンドボールの練習が行われ、体育館では中学校の籠球部(バスケットボール)練習が、高校生と一緒に行われ、私は中学2年で、兄弟で汗をかいていました。

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 「甲子園の土」は、那覇港の海に捨てられたのですが、日本航空の一人の客室乗務員の方が、40個ほどの小石を、グラウンドから集めて、首里高校の野球部に届けたのだそうです。今も、その石は、首里高校の校内の甲子園出場記念碑の中に埋め込まれてあるそうです。

 沖縄が、日本本土の scapegoat の様にしてあり続けたことに、ただ感謝するばかりです。戦後の国防問題、国境問題、極東問題の渦中で、米軍基地を設け続けて、犠牲を払ったくださったわけです。琉球王朝や薩摩藩の領地などの過去と今、そしてこれからの日本にとっても、重要な位置にあるのでしょう。一言、『にふぇーでーびる(琉球方言で “ ありがとう” です)!』と言いたいのです。

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平和を希求する

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 この5月15日に、《沖縄返還五十周年》を迎えました。長男が生まれた年1972年のことでした。沖縄が日本に復帰したことは、本当の意味で戦争が終結した年だったのかも知れません。

 「戦争と孤児」、戦争が子どもたちから、父親を奪い去ります。そして戦争が、父なし子を、占領地に産み落とすのです。たとえ戦争に正義の戦争があったとしても、この子たちにとっての戦争は、人道上の犯罪、生命軽視に違いありません。お父さんの遺品の軍帽をかぶって、別府の町でチャンバラごっこをして、少年期を過ごしたことを、話してくれた級友がいました。

 彼のお父さんは、中国の各地を転戦した職業軍人でした。敗戦と同時に、蒋介石率いる「国民軍」に参加して、中国大陸で戦死するのです。彼には、高名な陸軍大将だったおじさんがいましたし、お国のために戦い、主義主張のために死んでいった父親への誇りがあったに違いありません。

 それでも、写真に写ったお父さんの面影しか知らない、抱かれた実感を持たない青年だったのです。戦争は、彼から父親を奪い去ったことになりますし、彼の子どもたちから、おじいちゃんを取り去ったことになります。

 私の父は、戦争中に、軍需工場の工場長をしていました。零戦の戦闘機や爆撃機の部品の生産にかかわる仕事をしていたのですから、私は、陸軍が父に支払った俸給で買った食料で生きていた母の母乳や、購入したミルクや離乳食で育てられたことになります。

 それででしょうか、私は戦後に育った子であるのに、軍国少年魂を、亡霊のように内に宿して、予科練に憧れていたのです。『若い血潮の予科練は・・』と、七つボタンで身を包んでいるような錯覚に陥った私は、そう高吟するのが好きでした。

 そんな私を見て、『予科練ではなく海軍予備学生に憧れなさい!』と母が言うのでした。母には、広島・江田島にあった海軍兵学校に通い、戦死した幼馴染がいたのです。その母が結婚したのも、横須賀の海軍一家の青年だったのです。父のことですが。

 そんな背景の私は、平和を与えられ、救援物資で養ってくれたアメリカを敵国だと思っていました。でも、『こんな非道なことをする日本人が変えられるのは、福音以外にはない!』、そう願う、アメリカの教会から遣わされた宣教師の建てられた教会に、母が導かれるのです。私たち4人の兄弟は、その教会で信仰を持ったのです。そして上の兄と私は献身させていただきました。

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 そして私は、アメリカ人宣教師から聖書の読み方や学び方や組織神学、さらには妻の愛し方や子どもの育て方まで教わるはめになるのです。軍国少年が、元アメリカ空軍のパイロットと至近の距離にいて、7年間共に働き、学ばされたのですから、彼の忍耐がどれほどだったか想像に難くありません。

 イエスさまは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣によって滅びます(マタイ26・52)」とおっしゃいました。私は、自分の腰にではなく、心の中に吊り下げていた剣を捨てる必要があったのです。生まれながらに受け継ぎ、自ら好んで求めた「軍国主義の霊」とか「軍国少年魂」と言うものがあるのでしょうね。そういった亡霊や精神を取り扱われ、除くのは、一筋なわでは行かないことだったようです。今は、天のふるさとにお帰りになられた宣教師さんに心からの感謝を覚えるのです。

 真珠湾攻撃の攻撃隊長であった、淵田美津雄さんという方が、戦後クリスチャンになられて、伝道者の道を歩まれました。中野にあった教会で、この方のお話を聞いたことがあります。父の世代の方でした。軍人が、柔和な表情の伝道者になっておられたのですから、喧嘩に明け暮れ、心のすさんでいた軍国少年だって、「天国の使いっぱしり」にはなれるんだ、と思はされた出会いでありました。

そういえば、私を育ててくださった宣教師は、有名な工科大学を出て、軍に籍を置いていましたが、一人の日本への宣教師と、テキサスの街で出会い、その潔く堅固な人格に触れて、彼もまた宣教師となって、日本にやって来られた方でした。

 日本が敗戦間近に生まれ、戦争放棄をした戦後に、私は育ったのです。小学生の始め頃は朝鮮戦争、青年期にはヴェトナム戦争があり、それ以上に東西の零戦の時代が、長く続いたのです。湾岸戦争などがあって、今はウクライナへのロシアの侵攻があって、戦争の噂や戦闘が止みません。やがて、イスラエルの都、エルサレムに進軍して行くのでしょうか。ただウクライナの地に「平和」が戻ることを希求するばかりです。 

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農作業

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 「立ち直り支援」で、『今日は一日、少年たちと一緒に、農作業をしました!』と、団塊世代のおじいさんになった弟が言って来ました。それが嬉しいのか、彼らが、心を開いて、いろいろ話し始めてくれたのだそうです。

 長く教師をしながら、生徒指導の立場から、盛場で子どもたちに「声掛け」を、警視庁のスタッフとやって来て、今は、そんな奉仕を、喜んでしているのでしょう。母校の教師を退職して、学校の理事や教員の相談員、都内の小さな規模のチャーチスクールの教師、都内の盛場での見守りをして来て、75歳を機に、全てを終えても、気掛かりなのでしょう、警視庁の要請もあって、支援活動を続けているのです。

 『そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。(創世記323節)』

 人類最初の労働は、「土を耕すこと」でした。それは、罪を犯した人が、「エデンの東」の地で、生きるため、悔いて立ち直りに向かって生きて行く上で、創造主の委任でした。「農業」には、土から造り出された人に、糧を得させるためだけではなく、人の生を肯定し、神の創造の世界に関わって行くためなのかも知れません。

 第一次産業に関わる人が減って来ていますが、壊れた心や家庭や社会を再生して行くために、土を耕すことには力がありそうです。世界中で休耕地が増えていますが、人間関係に疲れた人、傷ついた人を癒す力が、「土」にはありそうです。土いじりだけではなく、時期が来て収穫を手にすることに、喜びがあるからです。

 素手で、「土」に触れることには、再生の力、命を宿し、生み出す力に触れることなのでしょう。先週、ベランダに、茄子や三つ葉の苗をいただいて、鉢の土の中に植えました。もう根付いて、イキイキとして来ています。土の感触を楽しめて、手も心も喜んでいます。「土や「農」に触れて、この時代の傷ついた子たちが、生きる喜びを感じ、一緒に作業する喜びで、再起していくために、好い奉仕が続けられることを願いつつ。

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