「生きる」 

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私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

私は今、生きている。

私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。

私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。

ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。

私はこの瞬間を、生きている。

この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。

たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。

私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。

あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。

今を一緒に、生きているのだ。

だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。

大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。

摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

(浦添市立湊川中学校3年 相良倫子)

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 戦争のあったことを語り継ぎ、若い世代が平和を願っていく想いは、今まさに切り広げられている「ウクライナ戦争」を目(ま)のあたりにすると、当然なのだと思います。かつて戦場だった沖縄で、生まれ育った若い人たちは、祖父母のもうひとつ前の世代の体験談を聞いたり、書物や写真集や映像で見て、また記念碑の前に立ったたりし、戦没者の記名碑を見ての想いなのでしょう。

 この詩を読んで、日中友好下に、中国から来られて、日本の理工系の大学院で学んでいた方が語った言葉が忘れられません。広島の原爆記念館に行かれての感想です。『日本は、戦争の被害者の記念碑を作って、その被害を忘れない様にしていますが、どうして「加害者だった記念碑」をなおざりにしているのでしょうか。それでは片手落ちではないでしょうか。』とです。

 『エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。 (ヨエル3章19節)』

 穏やかな口調でしたが、被害者の子や孫の想いとすれば、この想いも当然ではないでしょうか。祖国を軍靴で踏み躙(にじ)られたのですから、多くの命が犠牲になった事実を、忘れないで欲しかったのでしょう。今、「広島県」をブログに載せようとしていますが、そんな思いがあって、草稿が進まないのです。

 後の世代に、加害者だった時代の出来事、歴史的事実を、正しく伝えられていないと、被害者意識だけになってしまうのはいけません。事実の誇張もありますが、数の問題ではなく、事実は厳然として残されていて、戦争を知らない大人が、作為的に「歴史の改竄(かいざん)」をしていますし、事実全部を伝えてはいません。偏らない歴史教育は、IT教育の強化と同じ様に大切ではないでしょうか。

 昨日、屈託ない小学三年生のお二人と会って、しばらく話したり、フレスビー遊んだりしたので、殊更に、そんな思いにされました。「似非(えせ)軍国少年」の歪んだ時期を通って来た自分としては、令和の世の子どもたちの無邪気さが羨ましかったのです。

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あれから17回目の夏

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 小さな絵ですが、どこで入手したか覚えていなのですが、強烈な印象を受けた一枚です。還暦を過ぎて、みなさんが引退される時期に、家内の手を取って、人生の双六の上がりをするような気持ちで、2006年に香港に行きました。中国語を本場で学び、学んでいる間に、上がりの道すじが開けると信じてでした。

 その香港の樹木の茂る閑静な施設で、1週間後には、香港九龍駅から寝台列車で北京に行くまでの間過ごしたのです。真夏の8月のことでした。中国での volunteer 活動を志すみなさんが集まっていました。世界のいろいろな国から来ていたのです。スイス、ブラジル、イギリス、カナダ、アメリカなどからで、ほとんどが若い方々で、家内と私が一番の年長でした。

 美味しいイギリス風香港料理の賄いを受け、とても好い静かな時を過ごすことができました。長女が休暇をとって、英語のおぼつかない私たちのために、通訳の労をとってくれたのです。『心の中にあることを分かち合ってください!』と、事務局の方に言われて、聖書から1時間ほど、長女の通訳でお話をしましたら、イギリスから来ておられた夫妻に、感謝の握手を求められました。

 彼らは、雲南省の昆明(Kūnmíng)に直接行かれ、私たちは北京に向かったのです。その他には、青海省や黒竜江省などに、やがて行くことになる若いみなさんがいました。あの日から16年の歳月が過ぎました。まだ元気が旺盛で、歳には見られず、実際の歳を答えると驚かれていました。そして、さらに歳を重ねた今、北関東の栃木に住んで、越し方を思い返しているのです。

江雪    柳 宗元

千山鳥飛絶
万径人蹤滅
孤舟蓑笠翁
独釣寒江雪

 この絵は、「孤舟(こしゅう)」と呼べるでしょうか。この船頭さんは、どこに向かっていたのでしょうか。にぎやかな子育て時代を終えて、自分を見つめ直したり、人生の上がりのために、環境を変えて静かに過ごしたかったからではないと、あの時を思い返しています。その気分に、この舟の絵が似通(にかよ)っていたのです。

 実際は、キャセイ航空機で行ったのですが、気分は、「孤舟」に乗って、新しい地に漕ぎ進んでいたようです。自分で櫓を漕いでも、人生を導かれる神さまが、荒れた海をしずめて、背中を押されて進むようにして、歩み始め、ここにたどり着いたのです。未知の大南原を、自分一人で懸命に漕いでいるように感じても、追い風を受け、手を引かれるようにして、今日まで生きてきました。

 見守られ、声援を送られ、激励され、天からの送りで生きて今日あるのは、ただ「恩寵」なのです。どこに進んで行くのでしょうか。これからの日々にも、新しい驚きの出会いや出来事が待っていることでしょう。38度の酷暑の日の昨夜、雷光が光り、雷鳴が響き渡って、雷雨が強烈に降っていました。水かさが少なくなった巴波川に、雨水が注がれ込んで、流れがイキイキとした朝です。

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大切な心の作業

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 たびたび、次女から写真や動画が送信されてきます。その主人公は、婿殿の妹の二歳になった女の子なのです。おでこを怪我していたり、後ろ歩きをしたり、顔をきゅっと縮めたり、active で可愛いのです。この子には、母方のおばあちゃんの名前がつけられています。

 この子のお母さん、この cuteなチビちゃんのママですが、彼女のおばあちゃんに愛されて育ったのです。産みの親に養育を放棄された子で、婿殿たち年上の三人兄弟に、彼女も加えられて、十二分に愛されたのです。家内と一緒に、婿殿の実家を訪ねた時に、何度か会ったことがあります。はにかみながら握手をしてくれました。

 家族に愛された可愛いお嬢さんで、屈託がなかったのです。学校を出て仕事を始めてしばらく経って、教会で出会った青年と結婚したのです。まだ高校生だった頃に、家族で礼拝を守っている教会を訪ねた時に、youth group の青年だった青年を、彼女が紹介してくれていました。

 死別よりも、生き別れの方が、幼い子には辛い経験なのでしょうか。何歳頃でしょうか、産みの母親を見つけ出して、会いに出掛けたそうです。そしてはっきりした訣別をして、家に帰って来たと、次女が話してくれました。どんな境遇でも、人は愛されて育つなら、悪いものを跳ね返して生きていける力や感情を得られるのでしょう。創造主でいらっしゃる神と出会って、その自分の境遇を、神さまの手から受け入れられたのです。

 それで、その青年と教会で結婚をし、生まれたお嬢さんに、亡くなったお母さんの名前をつけたのです。きっと、その名を呼ぶたびに感謝し、養い育ててくれた養母の死、さらには生みの親との関係の死を受け入れつつ、自分の愛娘を、自分が育てられたように、育てているのでしょう。

 アルフォンス・デーケンと言われる哲学者がおいででした。もう召されておいでです。この方は、長く上智大学で「死の教育」、「死の神学」の講座を担当された方でした。私は、大変な興味を持って、この教授の公開講座を受講したことがありました。週に一度、特急電車に乗って、四ツ谷駅まで通ったのです。実に有意義な学びの時でした。

 とくにデーケン教授は、「悲嘆の作業(グリーフワーク)」の重要さについて教えてくれたのです。愛する人との死別というのは、どなたにも経験がありますし、将来においてあり得ることですし、また自分の《死》も迎えねばならないわけです。それは避けることのできない《万人の体験》なのです。

 とくに、愛する人との決別を、十二分に悲しみ嘆くことが必要だと、デーケン師は言うのです。それを確りと果たした後は、正常な生活に戻り、悲嘆体験を超えて、自分の定められた《生》を責任をもって生きて行く、そう言った心の作業が必要なのだそう です。みんなに「デーケンさん」と親しみをこめて呼ばれておいででした。その講座で教えていただいた「悲嘆のプロセス」には、12段階があって、次の様です。

1段階 精神的打撃と麻痺状態 

 愛する人の死という衝撃によって、一時的に現実感覚が麻痺状態になる。頭が真空になったようで、思考力がグッと落ち込む。心身のショックを少しでも和らげようとする本能的な働き、 つまり、防衛規制。

2段階 否認 

 感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。 

3段階 パニック 

 身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 。なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育の大切な目標のひとつと言える。

4段階 怒りと不当感 

 不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。  「私だけがなぜ?」「神さまはなぜ、ひどい運命を科すの?」
ショックがやや収まってくると「なぜ私だけが、こんな目に」という、不当な仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備ができる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、強い怒りが爆発的に吹き出す。 故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。

5段階 敵意とルサンチマン(憤り、怨恨、憎悪、非難、妬み) 

 周囲の人々や個人に対して、敵意という形で、やり場のない感情をぶつける。 遺された人のどうしようもない感情の対象として、犠牲者を必要としている場合が多く、また病死の場合は敵意の矛先を最後まで故人の側にいた医療関係者に向けられるケースが圧倒的。 日常的に患者の死を扱う病院側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との間に、感情の行き違いが起こる場合が多い。 

6段階 罪意識 

 悲嘆の行為を代表する反応で、過去の行いを悔やみ自分を責める。 「こんなことになるなら、生きているうちにもっとあれこれしてあげればよかった」という心境。 過去の行いを悔やんで自分を責めることになる。

7段階 空想形成・幻想   

 幻想ー空想の中で、故人がまだ生きているかのように思い込み、実生活でもそのように振る舞う。
 例1:亡くなった子供の部屋をどうしても片付けられず何年もそのままにしている
 例2:いつ子供が帰ってきてもいいよう、毎晩ベッドの上にパジャマまで揃えおく 

8段階 孤独感と抑うつ  

 健全な悲嘆のプロセスの一部分、早く乗り越えようとする努力と周囲の援助が重要。葬儀などが一段落し、周囲が落ち着いてくると、紛らわしようのない寂しさが襲ってくる。 

9段階 精神的混乱とアパシー(無関心)  

 日々の生活目標を見失った空虚さから、どうしていいかわからなくなり、あらゆることに関心を失う。 

10段階 あきらめ・受容  

 自分の置かれた状況を「あきらか」に見つめて受け入れ、つらい現実に勇気をもって直面しようとする努力が始まる。
「あきらめる」という言葉には「明らかにする」というニュアンスが含まれている。

11段階 新しい希望・ユーモアと笑いの再発見  

 ユーモアと笑いは健康的な生活に欠かせない要素で、その復活は悲嘆プロセスをうまく乗り切りつつあるしるし 
悲嘆のプロセスを彷徨っている間は、この苦しみが永遠に続くような思いに落ち込むものだが、いつかは必ず、希望の光が射し込んでくる。 こわばっていた顔にも少しずつ微笑みが戻り、ユーモアのセンスも蘇ってる。 

12段階 立ち直りの段階・新しいアイデンティティの誕生  

 愛する人を失う以前の自分に戻るのではなく、苦悩に満ちた悲嘆のプロセスを経て、新しいアイデンティティを獲得し、より成熟した人格者として生まれ変わることができる。 

 デーケン師も、子どもの頃に、ごく親しい人との死別をされていて、悲嘆の体験があって、そう言った学びをされたのだそうです。悲しみの中で、もし《ユーモア》、《微笑み》があるなら、それを上手に超えて、正常な生活の戻れると、師は勧めています。デーケン流の《ユーモア》の定義は、「にも関わらず笑う」なのです。

(“ キリスト教クリップアート” の「死の陰の谷の同行」です)

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きれい

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 作詞が厳谷小波 の文部省唱歌、「富士の山」です。

あたまを雲の上に出し
四方の山を見おろして
かみなりさまを下に聞く
富士は日本一の山

青空高くそびえたち
からだに雪の着物着て
かすみのすそを遠くひく
富士は日本一の山

 昨日、休暇で訪ねた富士山の麓から、次男が撮影した、写真とビデオです。山容が、本当に美しい山です。子育てをした街から、山のテッペンしか見えませんでしたが、こうして全容を見ると、登ってみたくなります。

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武士(もののふ)

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 華南の街にいた時に、一人のご婦人が、ご自分のスマホを操作して、映画のチケットを買っていました。家内と二人で、『映画を見てきてください!』とおっしゃってでした。それで、家の近くの万達広場と言う、shopping center の中にあった映画館に出掛けたのです。

 「君の名は。」という、アニメ映画でした。若者の空想映画で、ちょっと歳を重ねたわたしたちは、年代的なものがあってでしょうか、映画のスジの理解が難しかったのです。「日本の映画」が、自分の街で上映されるということで、彼女が観せて上げたいと願っての好意でした。

 実は、それ以来5、6年ぶりの映画鑑賞で、昨日、自転車のペタルをこいで、思川の橋を越えて、小山の思川ハーヴェストの映画館に出掛けたのです。題名が、「峠〜最後のサムライ〜(司馬遼太郎の原作小説『峠』、小泉堯史の監督、役所広司の主演)」でした。幕末、西(土佐脱藩)の坂本龍馬、東(長岡藩家老)の河井継之助と、後になって言われた幕末期の両雄の一人なのです。

 この河井継之助は、幕末の越後国・長岡藩の家老で、徳川の大政奉還後の騒動の中で、朝廷軍と幕府支持軍との間で戦われた、戊辰戦争の戦乱の渦中を生きていた姿を描いています。「本物の武士(もののふ)として生き、1868年(慶応4年)に没していく様子が描かれていました。

 以前、「塵壺(じんつぼ)」という河井継之助の日記を読んだことがありましたし、司馬遼太郎の作品も読んでいましたので、興味津々で、自転車をこいで思川の橋を渡って、思川ハーヴェストにある映画館に行きました。私たちの住む街から、日光連山の向こう側、会津の地に、重傷を負いながら逃れていく途中、只見の地で、継之助は没しています。

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 勇猛果敢で知恵に富んでいた人で、福沢諭吉の著した「西洋事情」も読んでいて、時代の流れをしっかりと捉えていたのです。武士に在らざる振る舞いや考えを、若い藩士から糾弾され、闇討にもあいますが、武士の面子よりも、領民を守ること、戦いを避けることに尽力していきます。

 恥を忍んで、嘆願書を提出しますが受け入れられず、やむなく戦いとなってしまいます。一躍して、継之助が軍を率いますが、負傷してしまいます。42歳の若さで、破傷風で没するのです。若い日に、西国を旅行した安政六年(1859年)に記した日記が残されいるのです。その中に、備中国の西方で農民の子として生まれますが、武士に取り立てられて、松山藩の武士となって、知恵者の「山田方谷」を訪ねたくだりが記されてあります。

 その方谷との別れをした時、村外れまで見送る方谷に、川を渡って少し行きますと、継之助は立ち止まって振り返り、笠を取って、地に下座して方谷を拝しています。また歩き、また歩いて、このことを三度も繰り返したそうです。

 その方谷は、自分を訪ねて来た、三十二歳の継之助を、『どうも、あの男は豪(え)ら過ぎる。あの男を北国あたりの役人にするのは惜しい・・・長岡では、河井を抑える人がいなかろう。』と評していました。そんな人物が、敬意を込めて訪ねた逸材の方谷のような人たちが、当時の日本にいたわけです。彼らのように、今日でも、誠を生きる人が市井に多くいるに違いありません。

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 目下、ぜひ乗ってみたいのは、春は新緑、秋は紅葉、冬場は豪雪のローカル鉄道の平和の時代の只見線の電車です。2011年7月の新潟・福島豪雨で鉄橋の流失や土砂崩れで鉄橋が倒壊してしまって、しばらく全線運転のなかった路線で、今年10月には、鉄橋の復旧で、越後の小出駅と会津若松駅間を電車が走ると発表されています。この秋には、これに乗って紅葉の綺麗な奥只見を訪ねてみたいものです。その頃には、戦争は終結できるでしょうか。

(「北越戦役の図」、「長岡花火大会」、「JR只見線」です)

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ちょうど今頃でした

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  『外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ(箴言2427節)』

 「愚直の努力」、しなければならないことを、手を抜くことなく、マニュアル通りに、基本に従って、繰り返していく職人気質を、そう言うのだと思います。頑固なおじさんは、見習い工の時に、手をとって教えられることなどありませんでしたから、先輩たちの仕事の仕方を盗み取ったのだそうです。そうして身につけた手法を、踏襲して堅持するのです。若い時に叩き込まれたことを、疑うことなく1つのことにこだわりながら、すべきことをして来たのです。  

 鍋の穴をふさぐ、「鋳掛屋」のおじさんが、子どもの頃に何ヶ月かに一度、自転車で回って来ました。『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言われませんでした。興味津々に覗き込んでいるわれわれに、仕事振りを見させてくれたのです。世の中で鋳掛屋の職人なんてたいしたことはないかも知れません。

 でも鍋が、どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、実に重宝だったのです。それにしても随分と安い仕事代だったのを覚えています。それでも、仕事に誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれ小僧に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。

 そう言った職人さんとか、職工さんが、製造業でも加工業でも、どこにも、どの部門にもいました。私が、学校に行っていました頃、毎年夏に、ある牛乳工場でアルバイトを2ヶ月ほどさせていただきました。製造のラインでも、出来上がった製品のビンの入った箱を、大きな冷蔵室で積むのです。それを出荷伝票に従って出庫もしていました。

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 実に頑固なおじさんが、どこにも必ずいたのです。『もっと工夫すれば、楽が出来るのに!』と若くて生意気なわれわれは思ったものです。ところが、決められたとおりにすることを、彼らは要求するのです。言われたことに『はい!』と従う時、彼らはニコニコと微笑んで、『うん、うん!』とうなずきながら、われわれの仕事振りを眺めていました。

 一日の仕事が終わると、明日の作業ために、時間をかけて掃除をし、また準備をするのです。目に見えない作業を繰り返しするわけです。新製品を開発する研究部門が、学歴や実績のある人たちによってなされている背後で、脚光を浴びない裏方がいて、どうでも良いように思われる愚直な作業を続けていたのです。

それがあって、社会で評価される製品が流通して行くわけです。奄美大島から出て来たり、秋田弁をしゃべるお兄さんたちの中に混じって、仕事をして、多くのことを学ばせてもらったのです。つまらないように見える仕事を、意味あるものとするプロ意識の中に見えたのが、この「愚直の努力」でした。若い人の『無駄だ。もっと省力化を図らねば!』と言った考え方に、それは警鐘を鳴らしている生き方、仕事の仕方に違いないのです。

 『漫才の天才!』と言われた人に、横山やすしがいました。彼が、自分と同年であった事を知った時から、彼の生き方に強い関心を向けたのです。同じ時代の流れや風の中を、生きて来た者として、とても親近感が湧いて来たからです。『ほんまに稽古嫌いだった!』と、相方の西川きよしが、そう話しているのを聞いたことがありました。

 1つの演目を演じるのに、その稽古嫌いのやすしをなだめすかして、稽古に連れ出したのは、きよしでした。なんと40回も稽古をしていたそうです。アドリブだとばかり思っていたのに、アドリブを入れるためには、積まれた山のような稽古があることを知らされて、一朝一夕には名人には、なれないのだと言うことを知らされたわけです。やすしの破天荒な生き方は理解できるのですが、自分の仕事に対して、いやいやながらでもし続けた、見えない裏の部分があったのだと言うことを知らされるわけです。

 冷蔵庫で牛乳の箱を積むアルバイトの合間に、誰かが、裕次郎の「赤いハンカチ」を歌っていました。60年近く前の今頃の季節で、ヒット曲だったのです。バイトが終わったら、北海道にでも行ってみたいような漂泊の思いに誘われたのが、昨日のことのようにま懐かしく思い出されます。
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キリストの教会の誕生

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 『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ1820節)』

 主イエスさまの弟子たちが、エルサレムの都で、『父がわたしの何よって、与える約束の聖霊を待ちなさい!』とのおことばに従って待っていました。やがて,ユダヤ恒例の祝祭の一つ「五旬節(pentēkostē七週の祭り)」の祭りがやってきたのです。その日、およそ120人ほどの人たちが、一軒の家で祈りをしていました。すると突然,天から激しい風が吹いて来るような響きが起こって、家全体に響き渡ったのです。

 そうしますと、炎のような分かれた舌が現れて、そこにいた一人一人に留まったのです。すると、みなが聖霊に満たされて、御霊が話させてくださる通りに、他国のことばで話し出したのです。彼らは口々に、『神の大いなるみわざを語った』と、記されててあります。それは弱さを覚える者を強める、約束の「力の付与」でした。

 ちょうど着物を着るように,力を着せられた120人ほどの人々によって、「キリストの教会」が、その日誕生したのです。その様子を,多くの人々が奇異なものを見るようにして眺めていました。驚き惑っている彼らは、『いったいこれはどうしたことか?』と言い始めます。

 まるで葡萄酒に酔っているように見えたのです。そこでペテロが,他の11人とともに立って、大きな声で説明を始めたのです。

 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』(使徒21721節)』

 この旧約聖書の「ヨエル書」のみことばを引用して、預言されたことの成就だと話したのです。その説明に耳を傾けていた人たちには、心を刺されて、『私たちは、どうしたらよいでしょうか。』と言うのです。それに応えて、ペテロが、『そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒238節)』と語ると、そのことばを受け入れた者たちは、バプテスマを受けます。

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 その五旬節の祭りの時に、『三千人ほどが弟子に加えられた。』のです。その信仰者たちは、使徒たちの教えを固く守り、交わりをし、パンを裂き(聖餐に預かったのです)、祈りをしていきます。この人たちを核にして,毎日救われる人たちが、教会に加えられていくのです。

 「キリストの教会の誕生」を、聖書はそう記しています。それは、教会にとっては、まさに「晴れの日」でした。間も無くすると、教会に「曇りの日」、「嵐の日」が訪れてきます。エルサレムの街の旧勢力のユダヤ教徒からの迫害が始まるのです。

教会の内側にも、主の御霊を試みる者が出てきたり、内部からの苦情、さらには殉教者も出てきました。そのような嵐の中で、キリストの教会は、主イエスさまがなさったような「奇跡」も行うのです。手を置いて祈られた者たちが、病を癒やされ、悪霊に支配されていた人たちが解放されていきます。その結果、主の弟子たちは日増しに加えられていくのです。

 やがて、激しい迫害が教会に襲いかかってきて、群れが散らされてしまいます。ところがユダヤやサマリヤに散らされていく中で、彼らは、『・・・みことばを宣べ伝えながら巡り歩いた(84節)』のです。そのエルサレムの教会の執事であったピリポも散らされ、サマリヤの街に行きます。彼も、そこで、『・・・キリストを宣べ伝えた(8節)』と記されてあります。ピリポは、「しるし」を行い、汚れた霊につかれた人を解放し、中風の人を癒すのです。それで、『町に大きな喜びが起こった』と記録されています。

 今日、世界中に、「キリストの教会」があります。ギリシャ語の「エクレシアκκλησία=国のために召集された集会)」の訳語で、「人々の集い」を意味していいます。「教える会」とは呼ばないで、ある集まりは、「集会」と呼ばれています。訳語としては、その方が原語の意味をよく体現しているからです。ウクライナの国にも、多くのクリスチャンがいて、「キリストの教会」があり、ペンテコステ系の教会が最も多く、世界中に多くの宣教師が送り出されています。戦火の中でさえも、互いを励まし合うために、ある教会では礼拝を守っています。

(“ キリスト教クリップアート“ による「ペンテコステ」です)

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岡山県

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 学校を出たての初めての職場で働いていた時,出張が多くありました。岡山のどこへ行ったのか、記憶がないのですが,その頃,母が入院していたのです。その母のために,旧国鉄の岡山駅前の,果物屋さんで,一箱《一万円》の「マスカット(Muscat of Alexandria /葡萄)」を買ったことは覚えているのです。

 『お母様の手術の結果、卵巣にガンが見つかって、摘出しましたが、半年の寿命です!』、父に変わって行った病院の主治医が、わたしに、そう告げていたのです。闘病中の母を元気付けたくて,当時、初任給を25000円もらっていて,2年目ほどでしたから,結構の値段でした。でも出張費もあったりで,母を喜ばせたかったのです。この県の県庁所在地の岡山市には,市の歌があります。市民が自分の街を愛する歌なのです。

桃の咲くころ あなたと出会い
熟れたぶどうを あなたと摘んだ
さやかにうつろう 季節の彩(いろ)を
川は浮かべて 流れゆく
みんなのこころに かようまち
ふるさと岡山 わたしの岡山

風も唄うよ 歴史の歌を
花のしたかげ 歩いた小径
ときめくあの日の 思い出抱いて
今日もやさしい 吉備の国
みんなのこころに のこるまち   
ふるさと岡山 わたしの岡山

明日へつないだ ほのかな夢も
かなう気がする 夕映えの瀬戸
ゆきかう船にも 願いをこめて
せめて想いを つたえたい
みんなのこころに 生きるまち   
ふるさと岡山 わたしの岡山

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 特産の葡萄は、《晴れの国》の nickname の岡山市の誇りだったのが分かります。生まれて,子ども時代を過ごした山梨県も、「葡萄県」で,父の親しい方が、果物屋さんをしていた関係で、季節になると、いつもわが家には葡萄が届けられていました。デラウエアとかキャンベルとか甲州種の葡萄とかだったでしょうか。その岡山県は、葡萄生産では、当時は全国一位、二位の生産を誇っていたのです。

 この県との関わりですと、そのくらいしかないでしょうか。華南の街にいました時に,家内とお交わりがあったご婦人が、岡山県の津山の出身で、東京で出会った中国の方と結婚しておいででした。

 そのお子さんが、今は都内の有名大学に入学されておいでです。最近はご連絡がないのですが、わたしと家内の入院中に、大変にお世話をいただいたり、ご心配くださった方たちです。気候が温暖な瀬戸内気候に育って、穏やかで、優しいお母さんでした。息子さんは、怪我の手術の後に、華南の街に帰ってきたわたしに、日本で買って帰った、自分の肝油ドロップを、回復を願ってプレゼントしてくれた高校生でした。

 さて、律令制のもとでは、吉備国(きびのくに)と呼ばれ、備前、備中、備後と区分けがされていました。県都は岡山市、人口は184万人、県花は桃の花、県木はアカマツ、県鳥は雉(きじ)です。温暖な気候の県でしょうか、そのせいで、人も穏やかな県民性のようです。

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 倉敷の「大原美術館」に、車で出掛けたこともありました。大原孫三郎が、巨額の投資をして建てた美術館で、公立でないものとしては、その収蔵品の量も質も、極めて貴重だとされています。絵を描かない自分ですが、時間をさいてのの見学でした。岡山市に知人がいて、そこに泊めていただいたのです。

 海辺は漁港も多く、内陸では農業や果物生産が盛んで、住んでみたい県の一つです。日本で初めての「孤児院」が、宮崎(日向)の人ですが,石井十次によって,岡山に開院されています。十次は、早く召されてしまいましたが,日本の社会に対してなされた、クリスチャンとして素晴らしい愛の奉仕、事業は特筆すべきことでありました。あの大原孫三郎は、十次の働きを陰になり日向になって援助していました。

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「変える」のか「変わる」のか

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 『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ122節)』

 カナダの精神科医のエリック・バーン(Eric Berne/1910510-1970715日)は、変えられないものがあるが、変えられるものもあることを言っています。『他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる。』と、人の持っている可能性を支持しています。

 ありのままの自分が変えられない青年期のもがきの轆轤(ろくろ)の中に、自分が飲み込まれそうにしていたのを覚えています。自分が変えられないのなら、〈相手〉、〈世の中〉、〈社会〉を変革すればいいと言って、学生運動が、勢いづこうとしていた時代の少し前に、学校にいました。

 思想闘争が暴力を用いた闘争に変わっていき、過激になり、世に中を転覆させようと目論んだのです.あの頃のリーダーが捕らえられ、刑務所送りになりました。そして年月が経って、先ごろ、刑期を終えて出所したと、ニュースが伝えていました。

 浅間山荘かどこかのアジトに寝ていた仲間が、布団の中から、何か物だとをとってもらおうとしたのですが、相手の逆鱗に触れて、『ブルジョア的なことを言いやがって!』と言われて、リンチ死をしたニュースを聞いて、結局は、仲間内の争いに行き着いたのだと思わされたのです。

 あの闘争の最前線、矢面に立てなくて、人影に隠れて、補給係をしていた男たちが、平和な時代になって、『国を変えなくちゃあ!』と、政治家になって、ある時期は、日本の政界を動かしていた時期がありました。変わるわけがなかったのです。

 結局は、人が、自分が変わらなければ、何も変わらないのです。律法を学んだ優秀な若き学徒、将来を嘱望された時代を担う者、サウロの心にたぎっていたのは、憎悪と殺意でした。キリストの弟子たちの信仰の間違いを糾弾し、神への不敬を警告し、ついには滅ぼそうとしたのです。彼らは、社会を混乱に導く動乱者だと言って、捕らえて殺そうとしていたのです。それが神への忠誠であり、従順だと思っていたのです。

 ところが「復活のキリスト」と、ダマスコへの途上で出会って、『彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。 (使徒94節)』のです。これが彼の一大転機となって、「パウロ」と改名され、聖霊に満たされ、「使徒」の務めを受けて、小アジアの諸地方に、「キリストの教会」を建てて行くほどになってしまいます。神のみ手、神の主導によって、強引に変えられたというべきでしょうか。彼は、やがてキリストのために殉教していくのです。

 迫害者が、熱烈な伝道者に変えられたパウロが、「心の一新」による自己変革を勧めたのです。自分の考えに固執することをやめ、「新しい考え」に生きることなのです。新しい価値観を持って生きることです。悪しき結果をもたらすような決心や計画を捨てて、人にいのちや希望や喜びを与えるような生き方に、舵を切ることです。

 それは、《自分を変える!》という「決心」、方向転換への「決心」以外には出来ません。真性の価値観の上に立つ決心すると、心の中に戦いも起こります。多くの人が、諦めずに、し続けたのです。この世のことに迎合しないでいき、なお変人にならないことです.正しい動機で生きるなら、どんな結果があっても得心できるからです。

 パウロの迫害者の過去は、過去のままですが、自らを変えて、溌剌として生き抜いた人でした。地上の栄冠を得ることはありませんでしたが、神から頂く栄冠を目指して、どんな困苦にも耐えて、この地上の走るべき馳せ場を走り抜いたのです。

 パウロの迫害者の過去は、過去のままですが、自らを変えて、溌剌として生き抜いた人でした。いえ、神に変えられて生きた人だったのです。

“ Christian  clip arts ” の「パウロとシラスの獄中賛美」です)

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