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『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12章2節)』
カナダの精神科医のエリック・バーン(Eric Berne/1910年5月10日-1970年7月15日)は、変えられないものがあるが、変えられるものもあることを言っています。『他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる。』と、人の持っている可能性を支持しています。
ありのままの自分が変えられない青年期のもがきの轆轤(ろくろ)の中に、自分が飲み込まれそうにしていたのを覚えています。自分が変えられないのなら、〈相手〉、〈世の中〉、〈社会〉を変革すればいいと言って、学生運動が、勢いづこうとしていた時代の少し前に、学校にいました。
思想闘争が暴力を用いた闘争に変わっていき、過激になり、世に中を転覆させようと目論んだのです.あの頃のリーダーが捕らえられ、刑務所送りになりました。そして年月が経って、先ごろ、刑期を終えて出所したと、ニュースが伝えていました。
浅間山荘かどこかのアジトに寝ていた仲間が、布団の中から、何か物だとをとってもらおうとしたのですが、相手の逆鱗に触れて、『ブルジョア的なことを言いやがって!』と言われて、リンチ死をしたニュースを聞いて、結局は、仲間内の争いに行き着いたのだと思わされたのです。
あの闘争の最前線、矢面に立てなくて、人影に隠れて、補給係をしていた男たちが、平和な時代になって、『国を変えなくちゃあ!』と、政治家になって、ある時期は、日本の政界を動かしていた時期がありました。変わるわけがなかったのです。
結局は、人が、自分が変わらなければ、何も変わらないのです。律法を学んだ優秀な若き学徒、将来を嘱望された時代を担う者、サウロの心にたぎっていたのは、憎悪と殺意でした。キリストの弟子たちの信仰の間違いを糾弾し、神への不敬を警告し、ついには滅ぼそうとしたのです。彼らは、社会を混乱に導く動乱者だと言って、捕らえて殺そうとしていたのです。それが神への忠誠であり、従順だと思っていたのです。
ところが「復活のキリスト」と、ダマスコへの途上で出会って、『彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。 (使徒9章4節)』のです。これが彼の一大転機となって、「パウロ」と改名され、聖霊に満たされ、「使徒」の務めを受けて、小アジアの諸地方に、「キリストの教会」を建てて行くほどになってしまいます。神のみ手、神の主導によって、強引に変えられたというべきでしょうか。彼は、やがてキリストのために殉教していくのです。
迫害者が、熱烈な伝道者に変えられたパウロが、「心の一新」による自己変革を勧めたのです。自分の考えに固執することをやめ、「新しい考え」に生きることなのです。新しい価値観を持って生きることです。悪しき結果をもたらすような決心や計画を捨てて、人にいのちや希望や喜びを与えるような生き方に、舵を切ることです。
それは、《自分を変える!》という「決心」、方向転換への「決心」以外には出来ません。真性の価値観の上に立つ決心すると、心の中に戦いも起こります。多くの人が、諦めずに、し続けたのです。この世のことに迎合しないでいき、なお変人にならないことです.正しい動機で生きるなら、どんな結果があっても得心できるからです。
パウロの迫害者の過去は、過去のままですが、自らを変えて、溌剌として生き抜いた人でした。地上の栄冠を得ることはありませんでしたが、神から頂く栄冠を目指して、どんな困苦にも耐えて、この地上の走るべき馳せ場を走り抜いたのです。
パウロの迫害者の過去は、過去のままですが、自らを変えて、溌剌として生き抜いた人でした。いえ、神に変えられて生きた人だったのです。
(“ Christian clip arts ” の「パウロとシラスの獄中賛美」です)
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