生きているっていいなあ!

 

 

 こんなに違うものかと、この違いはなんだろうかと、しばし思ってしまいました。昨日のyoutube のニュースで、アメリカ大統領のジョー・バイデン氏が、cycling を楽しんでいた時に、乗っていた自転車ごと倒れて、secret  service の助けで起き上がった様子を、ニュースカメラマンが撮影していて、全世界の注目を浴びていたのです。

 見まもっていた支持者たちが、大変心配してその成り行きを見ていたのです。でも、無事に立ち上がったら、みなさんからの大きな拍手を受けておいででした。重責を担う、間もなく、中国の指導者と hybrid 会議をされる予定があっての無事を、世界中がホッと胸を撫で下ろしたわけです。

 二週間ほど前、古くなった散歩用の靴を買いに、workman に出かけた時に、このわたしも自転車から転倒したのです。交差点の脇の歩道に登ろうとして、転倒してしまったのです。まさに天を仰ぐようにして倒れてしまったわけです。段差があって、そこを越えようとして、ペダルをこいだのですが、いかんせん力足らずで、止まった状態で倒れてしまったのです。

 私には、支持者が見まもるなんてことはありませんし、自分の靴を自転車で買いに行く老人なんて、物の数ではないわけです。倒れようが大怪我をしようが、関心を示してくれるのは、わたしを「おともだち」にしてくれている小学2年になった女の子と家内くらいしかいません。

 原付バイクに乗っていた息子ほどの方が、『だいじょうぶですか?』と二度ほど、心配して声を掛けてくれました。天を見上げた状態から、『だいじょうぶです!』を聞いて、わたしが立ち上がったのを見て、去っていかれました。もし私が、日本の首相だったら、百人くらいの報道陣やニュースカメラマンや支持者のみなさんが近寄ったり、心配の声をかけてくれたことでしょうか。

 〈ちょっと恥ずかしい体験〉を、同じ程の年齢のジョーも、無冠無名のわたしもしたのですが、この注目度の違いはなんなのでしょうか。その日の夕方には、世界のニュースになった彼と、自分で言わなければだれも知らない、同じ自転車転倒事故でした。わたしの〈恥体験〉は、二、三人しかでしたし、後になって顛末を聞かされた家内だけの知る一件でした。やはり、その同じ転倒仲間の違いは歴然で、雲泥の差があったのでした。

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 一組の老夫婦が、アフリカで長く宣教活動をして、帰国のために乗った船に、時の大統領一行がいました。大統領は、アフリカの原野で狩猟の休暇の旅を終えての帰国でした。アメリカの港に着いた時には、大統領を迎える為の政府関係者や支持者や大報道陣のヤンヤの喝采と歓迎がありました。一方、老宣教師を出迎えてくれた人は、だれ一人ありませんでした。宿に着いた時に、その〈違い〉はなんなのかと、彼は思って、ご夫人に、自分の心の思いを漏らしたのです。奥さまは、『祈られたらどうでしょうか。』と言われたそうです。

 これからの生活のために仕事も探さなければならない老身でした。その晩、彼は、祈りつつ、夢を見ます。夢に、主イエスさまが出て来られて、次のように語りかけるのです。『あなたは、まだ帰っていません!』とです。長い宣教の年月を終え、懐かしい生まれた祖国に帰って来た、孤寂やる方のない宣教師に、そう語るではないですか。それで彼は、天国への望みを抱いて、第二でしょうか、第三でしょうか、それを生きていく決心をして、すっくと立ち上がるのです。

 そんな以前聞いた話を思い出した朝です。歩道に背中を当てて、天を見上げて感じたのは、怪我のなかった身の無事で、それを感謝したのです。20年ほど前も、同じような転倒事故をして、右肩の腱盤断裂の怪我で、半年ほど手術と入院とリハビリをしていましたから、『また!』の中で守られたのです。そんな傷心のわたしを、一家族が、父の日の祝いのために、ラコステのポロシャツと、お嬢さんの手作りの花瓶、美味しい寿司のランチで祝ってくださったのです。ちょっとの自己憐憫の歩道から立ち上がったわたしには、『生きているっていいなあ!』の朝なのです。

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