武士(もののふ)

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 華南の街にいた時に、一人のご婦人が、ご自分のスマホを操作して、映画のチケットを買っていました。家内と二人で、『映画を見てきてください!』とおっしゃってでした。それで、家の近くの万達広場と言う、shopping center の中にあった映画館に出掛けたのです。

 「君の名は。」という、アニメ映画でした。若者の空想映画で、ちょっと歳を重ねたわたしたちは、年代的なものがあってでしょうか、映画のスジの理解が難しかったのです。「日本の映画」が、自分の街で上映されるということで、彼女が観せて上げたいと願っての好意でした。

 実は、それ以来5、6年ぶりの映画鑑賞で、昨日、自転車のペタルをこいで、思川の橋を越えて、小山の思川ハーヴェストの映画館に出掛けたのです。題名が、「峠〜最後のサムライ〜(司馬遼太郎の原作小説『峠』、小泉堯史の監督、役所広司の主演)」でした。幕末、西(土佐脱藩)の坂本龍馬、東(長岡藩家老)の河井継之助と、後になって言われた幕末期の両雄の一人なのです。

 この河井継之助は、幕末の越後国・長岡藩の家老で、徳川の大政奉還後の騒動の中で、朝廷軍と幕府支持軍との間で戦われた、戊辰戦争の戦乱の渦中を生きていた姿を描いています。「本物の武士(もののふ)として生き、1868年(慶応4年)に没していく様子が描かれていました。

 以前、「塵壺(じんつぼ)」という河井継之助の日記を読んだことがありましたし、司馬遼太郎の作品も読んでいましたので、興味津々で、自転車をこいで思川の橋を渡って、思川ハーヴェストにある映画館に行きました。私たちの住む街から、日光連山の向こう側、会津の地に、重傷を負いながら逃れていく途中、只見の地で、継之助は没しています。

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 勇猛果敢で知恵に富んでいた人で、福沢諭吉の著した「西洋事情」も読んでいて、時代の流れをしっかりと捉えていたのです。武士に在らざる振る舞いや考えを、若い藩士から糾弾され、闇討にもあいますが、武士の面子よりも、領民を守ること、戦いを避けることに尽力していきます。

 恥を忍んで、嘆願書を提出しますが受け入れられず、やむなく戦いとなってしまいます。一躍して、継之助が軍を率いますが、負傷してしまいます。42歳の若さで、破傷風で没するのです。若い日に、西国を旅行した安政六年(1859年)に記した日記が残されいるのです。その中に、備中国の西方で農民の子として生まれますが、武士に取り立てられて、松山藩の武士となって、知恵者の「山田方谷」を訪ねたくだりが記されてあります。

 その方谷との別れをした時、村外れまで見送る方谷に、川を渡って少し行きますと、継之助は立ち止まって振り返り、笠を取って、地に下座して方谷を拝しています。また歩き、また歩いて、このことを三度も繰り返したそうです。

 その方谷は、自分を訪ねて来た、三十二歳の継之助を、『どうも、あの男は豪(え)ら過ぎる。あの男を北国あたりの役人にするのは惜しい・・・長岡では、河井を抑える人がいなかろう。』と評していました。そんな人物が、敬意を込めて訪ねた逸材の方谷のような人たちが、当時の日本にいたわけです。彼らのように、今日でも、誠を生きる人が市井に多くいるに違いありません。

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 目下、ぜひ乗ってみたいのは、春は新緑、秋は紅葉、冬場は豪雪のローカル鉄道の平和の時代の只見線の電車です。2011年7月の新潟・福島豪雨で鉄橋の流失や土砂崩れで鉄橋が倒壊してしまって、しばらく全線運転のなかった路線で、今年10月には、鉄橋の復旧で、越後の小出駅と会津若松駅間を電車が走ると発表されています。この秋には、これに乗って紅葉の綺麗な奥只見を訪ねてみたいものです。その頃には、戦争は終結できるでしょうか。

(「北越戦役の図」、「長岡花火大会」、「JR只見線」です)

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ちょうど今頃でした

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  『外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ(箴言2427節)』

 「愚直の努力」、しなければならないことを、手を抜くことなく、マニュアル通りに、基本に従って、繰り返していく職人気質を、そう言うのだと思います。頑固なおじさんは、見習い工の時に、手をとって教えられることなどありませんでしたから、先輩たちの仕事の仕方を盗み取ったのだそうです。そうして身につけた手法を、踏襲して堅持するのです。若い時に叩き込まれたことを、疑うことなく1つのことにこだわりながら、すべきことをして来たのです。  

 鍋の穴をふさぐ、「鋳掛屋」のおじさんが、子どもの頃に何ヶ月かに一度、自転車で回って来ました。『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言われませんでした。興味津々に覗き込んでいるわれわれに、仕事振りを見させてくれたのです。世の中で鋳掛屋の職人なんてたいしたことはないかも知れません。

 でも鍋が、どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、実に重宝だったのです。それにしても随分と安い仕事代だったのを覚えています。それでも、仕事に誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれ小僧に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。

 そう言った職人さんとか、職工さんが、製造業でも加工業でも、どこにも、どの部門にもいました。私が、学校に行っていました頃、毎年夏に、ある牛乳工場でアルバイトを2ヶ月ほどさせていただきました。製造のラインでも、出来上がった製品のビンの入った箱を、大きな冷蔵室で積むのです。それを出荷伝票に従って出庫もしていました。

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 実に頑固なおじさんが、どこにも必ずいたのです。『もっと工夫すれば、楽が出来るのに!』と若くて生意気なわれわれは思ったものです。ところが、決められたとおりにすることを、彼らは要求するのです。言われたことに『はい!』と従う時、彼らはニコニコと微笑んで、『うん、うん!』とうなずきながら、われわれの仕事振りを眺めていました。

 一日の仕事が終わると、明日の作業ために、時間をかけて掃除をし、また準備をするのです。目に見えない作業を繰り返しするわけです。新製品を開発する研究部門が、学歴や実績のある人たちによってなされている背後で、脚光を浴びない裏方がいて、どうでも良いように思われる愚直な作業を続けていたのです。

それがあって、社会で評価される製品が流通して行くわけです。奄美大島から出て来たり、秋田弁をしゃべるお兄さんたちの中に混じって、仕事をして、多くのことを学ばせてもらったのです。つまらないように見える仕事を、意味あるものとするプロ意識の中に見えたのが、この「愚直の努力」でした。若い人の『無駄だ。もっと省力化を図らねば!』と言った考え方に、それは警鐘を鳴らしている生き方、仕事の仕方に違いないのです。

 『漫才の天才!』と言われた人に、横山やすしがいました。彼が、自分と同年であった事を知った時から、彼の生き方に強い関心を向けたのです。同じ時代の流れや風の中を、生きて来た者として、とても親近感が湧いて来たからです。『ほんまに稽古嫌いだった!』と、相方の西川きよしが、そう話しているのを聞いたことがありました。

 1つの演目を演じるのに、その稽古嫌いのやすしをなだめすかして、稽古に連れ出したのは、きよしでした。なんと40回も稽古をしていたそうです。アドリブだとばかり思っていたのに、アドリブを入れるためには、積まれた山のような稽古があることを知らされて、一朝一夕には名人には、なれないのだと言うことを知らされたわけです。やすしの破天荒な生き方は理解できるのですが、自分の仕事に対して、いやいやながらでもし続けた、見えない裏の部分があったのだと言うことを知らされるわけです。

 冷蔵庫で牛乳の箱を積むアルバイトの合間に、誰かが、裕次郎の「赤いハンカチ」を歌っていました。60年近く前の今頃の季節で、ヒット曲だったのです。バイトが終わったら、北海道にでも行ってみたいような漂泊の思いに誘われたのが、昨日のことのようにま懐かしく思い出されます。
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